初級翻訳・あのときの王子くん 第13話

あのときの王子くん

ぼくの耳には、まだ滑車が歌い続けているように聞こえた。揺れる水面には、朝のお日さまがふるえて映っていた。
「この水がほしい」と王子くんがいった。
「飲ませてちょうだい……」
そのとき、ぼくはわかった。この子の探していたものが何だったのか!

ぼくは、その子の口もとまでバケツを持ち上げた。
その子は、目を閉じたまま、ごくっと飲んだ。
お祝いの日みたいに、気持ちがよかった。その水は、ただの飲み物とはまったく別のものだった。
この水は、星空の下を歩いて、滑車の歌を聞いて、ぼくが腕を振り絞って汲み上げたからこそ、ここにあるのだ。
この水は、心に栄養をくれる。まるでプレゼントのようだ。
ぼくが小さな男の子だったころ、クリスマスツリーがきらきらして、夜ミサの音楽が流れて、みんなが笑顔でいたからこそ、ぼくのもらったあのプレゼントが、あんなふうに輝いていたのと同じように。

王子くんがいった。
「きみたちのところの人は、五千本ものバラを一つの庭で育てている……それなのに、探しものは見つからないんだね」
「見つからないね」と、ぼくはうなずく。
「それなのに、探しものは、たった一輪のバラや、ほんの少しの水の中に見つかったりするんだよ……」
「そのとおりだね」と、ぼくはうなずく。
王子くんは続ける。
「でも、目では見えないんだ。心で探さなくちゃいけない」

ぼくは水を飲んだ。深呼吸をする。
砂漠は、夜明けの光で、はちみつ色に染まっていた。
ぼくもうれしかった、はちみつ色だったから。
もう、無理をして探し回る必要なんてないんだ……。
「ねえ、約束をまもってよ」と、王子くんはぽつりといって、もう一度ぼくのそばに座った。
「なんの約束?」
「ほら……ヒツジの口輪だよ……ぼくは、花にお返しをしなくちゃならないんだ!」
ぼくはポケットから、練習で描いた絵を取り出した。
王子くんはそれを見ると、笑いながらこういった。
「きみのバオバブ、ちょっとキャベツっぽいよ……」
「えっ!」
バオバブはうまく描けたと思っていたのに!
「きみのキツネ……この耳……ちょっとツノっぽいし……長すぎるよ!」
その子は、からからと笑った。
「そんなこといわないでよ、ぼうや。ぼくは、中身の見えないボアと、中身の見えるボアしか、絵というものを知らないんだから」
「ううん、それでいいのさ。子どもたちはわかっているから」

そんなわけで、ぼくは鉛筆で口輪を描いた。
それをその子に渡したとき、なぜだか心が苦しくなった。
「ねえ、ぼくにかくれて、何かをしようとしているのかい……?」
でも、その子はそれに答えず、こうぼくにいった。
「ねえ、ぼくが地球におっこちて……明日で一年になるんだ……」
そのあと、少し黙ってから、
「この近くにおっこちたんだ……」
といって、顔を真っ赤にした。そのとき、また、なぜだかわからないけれど、妙に悲しい気持ちになった。
それなのに、ぼくは聞いてみたくなったんだ。
「じゃあ、一週間前、ぼくときみが出会ったあの朝、きみがあんなふうに、人の住むところから遥かかなた、ひとりっきりで歩いていたのは、たまたまじゃないってこと? きみは、おっこちたその場所に、戻ろうとしているんだね?」
王子くんは、もっと顔を赤くした。
ぼくは、ためらいつつも続けた。
「もしかして、一年たったら……?」
王子くんは、またまた真っ赤になった。
質問には答えなかったけれど、でも、赤くなるってことは、「うん」と言っているのと同じことだから。
「ねえ!」と、ぼくは言った。
「だいじょうぶ……?」
それでも、その子は答えなかった。
「きみは、もう、やることをやらなくちゃいけない。自分の飛行機のところへ帰らなきゃいけないんだね。ぼくは、ここで待ってる。明日の夜、帰ってきてよ……」
どうしても、ぼくは落ち着かなかった。
キツネのことを思い出したからだ。誰であっても、なつかせられたら、ちょっと泣いてしまうものなのかもしれない……。

26

井戸のそばに、壊れた古い石の壁があった。
次の日の夕方、ぼくがやることを終えて戻ってくると、遠くのほうに、王子くんがその壁の上に座って、足をぶらんとさせているのが見えた。
その子の話す声も聞こえてくる。
「じゃあ、きみは覚えてないの?」と、その子は言った。「ちがうって、ここは!」
その子の言葉に、なにかが返事をしているみたいだった。
「そうだけど! そう、今日なんだけど、ちがうんだって、ここじゃないんだ……」
ぼくは、壁のほうへ歩いていった。
けれど、何も見えないし、何も聞こえない。
それでも、王子くんはまた言葉を返していた。
「……そうだよ。砂漠についたぼくの足あとが、どこから始まってるかわかるでしょ。きみは待つだけでいいの。ぼくは、今日の夜、そこにいるから」
ぼくは、壁から20メートルのところまで来たけれど、まだ何も見えない。
王子くんは、しばらく黙ったあと、もう一度言った。
「きみの毒は、だいじょうぶなの? ほんとに、じわじわ苦しまなくてもいいんだよね?」

ぼくは心が苦しくなって、立ち止まったけれど、どうしてなのか、やっぱりわからなかった。
「とにかく、もう行ってよ」と、その子は言った。
「……ぼくは下りたいんだ!」

そのとき、ぼくは気になって、壁の下のあたりをのぞきこんでみた。
ぼくは、飛び上がった。
なんと、そこにいたのは、王子くんのほうへシャーっとかまえている、黄色いヘビが一匹。
人を30秒で殺してしまうやつだ。
ぼくはピストルを撃とうと、懸命にポケットの中を探りながら、駆け足で向かった。
だけど、ぼくの立てた音に気づいて、ヘビは砂の中へ、噴水がやむみたいに、しゅるしゅると引っ込んでしまった。
それからは、急ぐようでもなく、石の間をカシャカシャと軽い音を立てながら、すり抜けていった。
ぼくは、なんとか壁まで行って、かろうじてその子を受け止めた。
ぼくのぼうや、ぼくの王子くん。
顔が、雪のように青白い。
「いったいどういうこと! さっき、きみ、ヘビとしゃべってたよね!」
ぼくは、その子のいつもつけているマフラーをほどいた。こめかみを湿らせ、水を飲ませた。
とにかく、ぼくはもう何も聞けなかった。
その子は、思い詰めた様子で、ぼくのことをじっと見て、ぼくの首にすがりついた。
その子の心臓のどきどきが伝わってくる。鉄砲に撃たれて死んでゆく鳥みたいに、弱々しい。
その子は言う。
「うれしいよ、きみは、自分の飛行機に足りないものを見つけたんだね。もう、きみんちに帰ってゆけるね……」
「どうして、わかるの?」
ぼくは、ちょうど知らせに来るところだった。考えていたよりも、やるべきことがうまくいったんだ、って。
その子は、ぼくの聞いたことには答えなかったけれど、こう続けたんだ。
「ぼくもね、今日、ぼくんちに帰るんだ……」
それから、さみしそうに言った。
「遥かずっと遠いところ……遥かずっと難しいけれど……」
ぼくは、ひしひしと感じた。なにか、とんでもないことが起ころうとしている。
ぼくは、その子をぎゅっと抱きしめた。小さな子どもにするみたいに。
なのに、それなのに、ぼくには、その子がするっと抜け出て、深い穴におちてしまうような気がした。

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