それに、あの懐かしい竜宮の名誉にかけても、何とかしてこの不可解なお土産の中に、尊い意味を見つけ出したいものですね。
いかに竜宮での数日が陸上の数百年に当たるとしても、何もその歳月を、こんなややこしいお土産にして浦島に持たせなくてもよさそうなものです。
浦島が竜宮から海の上に浮かび出た瞬間に、白髪の三百歳に変わってしまったというのなら、まだ話は分かります。
また、乙姫さまの情けで、浦島をいつまでも青年の姿のままにしておこうというつもりだったのなら、そんな危険な「開けてはならぬ」なんて品物を、わざわざ浦島に持たせる必要はありません。
竜宮のどこかの隅にでも捨てておけばいいじゃないですか。
それとも、「お前が出した排泄物は、お前が責任を持って持ち帰りなさい」という意味なのでしょうか。
それでは、なんだかひどく下品な「嫌がらせ」みたいです。
まさか、あの聖なる悟りを得た乙姫さまが、そんな長屋の夫婦喧嘩のようなことを企むとは考えられません。
どうも、分からない。
私はそれについて長い間、ずっと考えてきました。
そして、最近になって、ようやく少し分かってきたような気がしているのです。
つまり、私たちは「浦島が三百歳になったこと」が、浦島にとって不幸であったという思い込みによって、ずっと誤解をさせられてきたのです。
絵本にも、浦島が三百歳になってから「実に悲惨な身の上になったものだ。お気の毒に」なんてことは書かれていません。
「たちまち白髪のおじいさん」
それで終わりです。
「お気の毒だ」とか「馬鹿だ」とか言うのは、私たち凡人が勝手に決めてかかっているだけの思い込みに過ぎないのです。三百歳になったことは、浦島にとって、決して不幸なことではなかったのです。
貝殻の底に「希望」の星があって、それで救われたという話は、考えてみると少し少女趣味で、作り物のような感じがしないでもありませんが、浦島は、あの立ち昇る煙そのものによって救われているのです。
貝殻の底に、何も残っていなくたっていいのです。
そんなことは問題ではありません。
言い換えれば、
年月は、人間にとっての救いです。
忘却(忘れること)もまた、人間にとっての救いです。
竜宮での高貴なおもてなしも、この素晴らしいお土産によって、まさに最高潮に達したといえるでしょう。
思い出というものは、遠く離れるほど美しく輝くといいますからね。
しかも、その三百年という時間を呼び寄せることさえ、浦島自身の気持ちにゆだねられていたのです。
ここに至って、浦島は乙姫さまから、自分の人生をどう生きてもよいという「無限の許可」をもらっていたことになります。
もし寂しくなければ、浦島は貝殻を開けてみるようなことはしなかったでしょう。
どうしようもなく孤独を感じ、この貝殻一つに救いを求めた時になって初めて、開けたのかもしれません。
開ければ、そこにはたちまち三百年という年月と、忘却が待っています。
これ以上の説明はよしましょう。
日本のお伽話には、これほど深い慈悲が込められているのです。
浦島は、それから十年もの間、幸福な老人として生きたそうです。
カチカチ山
カチカチ山の物語に登場する兎は少女で、そしてあの惨めな負け方をする狸は、その兎の少女に恋をしている醜い男。
これはもう、疑う余地のない確かな事実のように、私には思えてなりません。
この事件は、甲州(山梨県)の富士五湖の一つ、河口湖のほとり、今の船津の裏山あたりで起きたことだといわれています。
甲州の人々は、気性が荒いといわれます。
そのせいか、この物語も他のお伽話と比べると、いくぶん荒っぽくできています。
だいいち、物語の始まりからして残酷です。
「婆汁(ばばあじる)」なんていうのは、ひどすぎます。
冗談にも洒落にもなっていません。
狸も、つまらない悪戯をしたものです。
縁の下に老婆の骨が散らばっていたなんて場面に至っては、まさに陰惨さの極みであって、いわゆる児童向けの読み物としては、残念ながら発売禁止処分を受けても仕方がないレベルでしょう。
現在発行されているカチカチ山の絵本が、狸が老婆に怪我をさせて逃げた、という具合に賢明にごまかしているのはそのためです。
まあ、そうすれば発売禁止も避けられますし、とても良いことだとは思います。しかし、ただそれだけの悪戯に対する懲罰としては、兎のやり方は執拗(しつよう)すぎます。
一撃のもとに倒すような、颯爽(さっそう)とした仇討ちではありません。
生かさず殺さずにして、いたぶり、いたぶった挙句、最後は泥の舟に乗せてぶくぶくと沈めるのです。
その手段は、最初から最後まで嘘と策略に満ちています。
これは日本の武士道の作法ではありません。
しかし、狸が老婆を煮て食うような悪どい術を使ったのならば、そのお返しとして、それくらいの執拗な責め苦を受けるのも仕方がない、という見方もできなくはありません。
ただ、子供の心に与える影響や、発売禁止の恐れを考えたとき、狸が単に老婆に怪我をさせて逃げたというだけの罪に対して、兎からあのような数々の恥辱と苦痛、そして最後にはぶざまな溺死を与えられるのは、少し不当なようにも思えてくるのです。
もともとこの狸は、何の罪も犯さず山でのんびり遊んでいたところを爺さんに捕まり、狸汁にされるという絶望的な運命に追い込まれました。それでも何とかして生き延びる道を切り開きたく、もがき苦しんだ末に、窮余の策として老婆を騙し、九死に一生を得たのです。
老婆を煮るような悪だくみをしたのは大いに悪いことですが、今の絵本のように、逃げるついでに老婆を引っ掻いて怪我をさせた程度のことは、狸も当時は必死で、いわば正当防衛のために無我夢中で暴れた結果、意識せずに老婆を傷つけてしまったのかもしれません。そう考えると、そんなに憎むべき罪ではないようにも思えます。
私の家の五歳の娘は、顔立ちも父に似て非常に不細工なのですが、頭脳もまた不幸なことに父に似て、どこか変なところがあるようです。
私が防空壕の中で、このカチカチ山の絵本を読んであげたとき、
「狸さん、可哀想ね」
と、意外なことを口走りました。
もっとも、この娘の「可哀想」は、最近の彼女の口癖で、何を見ても「可哀想」を連発し、子に甘い母親の褒め言葉を得ようという下心が露骨に見え透いているので、さほど驚くには当たりません。
あるいは、この子は父に連れられて近所の井の頭動物園に行った時、檻の中をちょこちょこと歩き回っている狸の一群を眺めて「愛すべき動物だ」と思い込み、そのせいで、このカチカチ山の物語においても、理由の如何を問わず狸をひいきしていたのかもしれません。
いずれにしても、我が家の小さな同情者の言葉は、あまり当てになりません。
考えの根拠が薄いのです。
同情する理由もあやふやです。
そもそも、何一つ問題にする価値もありません。
しかし私は、その娘の無責任きわまりない言葉を聞いて、あるヒントを与えられたような気がしたのです。娘はただ、最近覚えた言葉を適当に言ってみただけなのですが、父である私はその言葉を聞いて、「なるほど、たしかにこれはウサギのやり方がひどすぎる」と考えさせられました。
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