初級翻訳・かき 第1話

かき

小雨のちらつく、ある秋の夕暮れだった。
(ぼくは、あのときのことを今でもはっきりおぼえている。)

 ぼくは、お父さんに連れられて、人がたくさん行き来するモスクワの大きな通りに立っているうちに、だんだんとなんだか気分が悪くなってきた。
べつに体のどこかが痛いわけでもないのに、足がふるえて、声がのどにつかえ、頭がぐったりと横にかたむいてしまう。
……この調子だと、今にもバタッと倒れて、気を失ってしまいそうだ。
もしこのまま病院送りになったとしたら、お医者さんたちはぼくのカルテに、「はらぺこ」っていう病名を書くにちがいない。
――もっとも、そんな病気はお医者さんの教科書にはのっていないけれど。

歩道の上には、ぼくの横にお父さんも立っている。
お父さんは、すり切れた夏のコートを着て、白っぽい綿が飛び出している毛の帽子をかぶっている。
足には、ブカブカで重たいオーバーシューズをはいている。
お父さんはもともと見栄っ張りな性格だから、生足に直接オーバーシューズをはいているのを人に見られるのが気になるらしく、古い革のレギンスをすねの上までグッと引き上げている。
ぼくは、お父さんのそのおしゃれな夏のコートがボロボロになって、よごれればよごれるほど、お父さんのことが大好きになる。
かわいそうなお父さんは、今からちょうど五か月前、都会に出てきて仕事(書記の口)をさがしていた。
それからのまる五か月、お父さんは市内をてくてく歩いて、あちこちに仕事をお願いして回った。
そして今日――ついに、通りに立ってみなさんにお願い(ものごい)をする決心をしたのだ。

ぼくたち二人が立っているちょうど目の前に、「飲食店」という青い看板がかかった三階建ての建物がある。
ぼくは頭がぐったりとうしろの方へそりかえっているものだから、見たくなくても、その飲食店の赤々と明かりのともった窓を見上げずにはいられない。
その窓のむこうには、たくさんの人の影がちらちらと動いている。
オルガンの右がわも見えている。
油絵が二まい、それから、天井から下がったランプもたくさん見える。
一つの窓をじっと見つめているうちに、ぼくはふと、なんだか白っぽい斑点(はんてん)に気がついた。
そのシミは少しも動かず、全体が暗い茶色の背景の上に、四角い輪郭(りんかく)をくっきりと浮かび上がらせている。
ぼくは目をこらして、じっと見つめる。
すると、そのシミが壁に貼られた白い紙だとわかってきた。
貼り紙には何か書いてあるけれど、何が書いてあるのか遠くて見えない。
……
半時間ほど、ぼくはその貼り紙とにらめっこをする。
その白さにぼくの目は吸いつけられ、ぼくの脳みそはまるで催眠術にかかったようになっていく。
ぼくは文字を読もうと必死にがんばるけれど、いくらがんばってもダメだ。
とうとう正体不明の病気が、我が物顔であばれ始める。
馬車の音が、まるで雷の音のように聞こえてくる。
通りにただようムッとするにおいの中から、ぼくは何百、何千ものちがったにおいを嗅ぎわける。
ぼくの目には、飲食店のランプや街灯の光が、目がくらむほどの稲妻のようにうつる。
ぼくの五感はいつもの五倍も十倍も働き出す。
そして、それまで見えなかったものが見え始める。

「か・き……」――と、ぼくは、貼り紙の文字を読む。
ふしぎな言葉だ! ぼくはこの地上に生まれてまだ八年と三か月しかたっていないけれど、今まで一度も、こんな言葉は聞いたことがない。
いったいどういう意味だろう? 飲食店の主人の名前かな? いやいや、名前を書いた表札なら、ふつう戸口にかけるもので、壁に貼ったりするはずがない!

「とうちゃん、『かき』ってなあに?」――ぼくは、顔をお父さんのほうに向けようとがんばりながら、かすれた声でたずねる。
けれども、お父さんには聞こえない。
お父さんはじっと人の流れを見つめ、行き交う人たちを一人ひとり見送っている。
……その目つきから、ぼくにはお父さんが通行人に何か話しかけようとしているのがよくわかる。
『どうぞ、おめぐみを』というつらい言葉は、まるで重いおもりのように、お父さんのふるえるくちびるにひっかかって、どうしても外に飛び出さない。
一度なんて、お父さんは通行人の後を追いかけて一歩ふみだし、その人の袖(そで)にさわりさえした。
ところが、その人が振り返ると、お父さんは「失礼しました」と一言言って、オドオドしながら後ろにさがってしまった。

「とうちゃん、『かき』ってなあに?」と、ぼくはもう一度くりかえす。
「そういう生きものだよ……海にいるんだ……」

ぼくはそれを聞いたとたん、この見たこともない海の生きものを、心の中でイメージしてみた。
それはきっと、魚とエビのあいの子にちがいない。
そして、海の生きものっていうくらいだから、それを使って、いい香りのするコショウや月桂樹の葉を入れたすごくおいしい熱いスープだとか、軟骨の入った少しすっぱいお肉のスープだとか、エビのソースだとか、ワサビを添えた冷たい料理なんかを作るにちがいない。……ぼくは、この生きものを市場から買っていって、大いそぎできれいに洗い、大いそぎでお鍋の中に入れる光景を、ありありと思い浮かべる。
……大いそぎで、大いそぎで……みんな、早く食べたがっているのだから。
……とっても食べたがっているのだから! 台所から、焼き魚や、えびスープのいいにおいが、ぷんとただよってくる。
そのにおいが上あごや鼻の穴をくすぐって、だんだん体じゅうにしみこんでいくのを、ぼくは感じる。
……レストランも、父さんも、あの白い貼り紙も、ぼくの袖も――何もかも、このにおいがする。
あまり強くにおうものだから、ぼくは思わず口をもぐもぐとかみ始める。
かんで、ごくりと飲みこむ――まるで、ぼくの口の中に、ほんとうに、あの海の生きものがひときれ入っているかのように……
 ああ、おいしいな、と思ったとたんに、ぼくの足ががくんと折れ曲がった。
ぼくは倒れないように、父さんの袖をつかんで、父さんのしっとりぬれた夏のコートにすがりつく。
父さんは、からだをふるわせて、小さくなっている。
寒いのだ。
「とうちゃん、かきって精進料理なの? それとも、お肉みたいななまぐさ料理なの?」と、ぼくはたずねる。
「生きたまま食べるのさ。
……」と、父さんが言う。
「亀みたいに、かたい殻をかぶっているんだよ。
もっとも……殻は二枚あるんだけどね。
」
 おいしいにおいは、とたんに、ぼくの体をくすぐるのをやめ、目のまえの幻はパッと消え去った。
……なんだ、そうだったのか!
「うわっ、気味わるい!」と、ぼくはつぶやく。
「うわっ、気味わるい!」
 それが、かきというものだったのか! ぼくは、カエルみたいな生きものを想像する。
一匹のカエルが殻の中にうずくまって、そこから大きなぎらぎら光る二つの目を見はりながら、ゾッとするような口をモグモグ動かしている。
それからぼくは、硬い殻をかぶり、ハサミを持ち、両目をギラギラ光らせて、ぬるぬるした皮膚におおわれたこの生きものを、市場からかついで運んでくる様子を心にえがいてみる。
……子どもたちは、みんなこわがって隠れる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました