ソーリン ついでだからちょっと聞いておきたいんだが、そのお母さんの連れの小説家ってのは、一体全体どういう男なんだい? どうもあの男は、いまいち得体の知れんところがある。
いつもむっつり黙りこくっていてさ。
トレープレフ あれはね、頭が良くて、さばさばしていて、そのうえちょっとメランコリック(憂鬱)な男ですよ。
なかなかりっぱな人物さ。
まだ四十歳にもならないのに、その名前は天下にとどろいているし、食べるものも住むところも、何から何まで結構ずくめで恵まれたご身分なのさ。
……じゃあ、肝心の書くものはどうかと言うと……さあ、どう言ったらいいのかなあ? たしかに人好きのする見事な才筆ではあるけれど……だけどさあ……。
大文豪トルストイやゾラの本を読んだあとじゃ、どうも今のトリゴーリンの小説をわざわざ読む気にはなれないね。
ソーリン ところで、わたしは昔から文士(作家)という職業の人間が好きでね。
若い頃は、人生であこがれるものが二つあったんだ。
可愛いお嫁さんをもらうことと、それから大作家になること――だが、どっちも結局ダメだったな。
そうさ、たとえちっぽけな売れない文士だって、なれたらさぞ面白かったろうにね、早い話がさ。
トレープレフ (じっと耳をすませて)……足音が聞こえるぞ。
(伯父に抱きついて)僕はね、あの人なしじゃ一日だって生きられないんだ……!
あの足音を聞くだけで、もうすばらしくてたまらない。
僕は、心の底からめいっぱい幸せなんだ……!
(足早に、待ちに待ったニーナを迎えに行く。そしてニーナが登場する)
さあ、僕の可愛い魔女が来てくれた! 僕の大切な夢が……!
ニーナ (興奮した様子で)私、遅れなかったわよね……?
ねえ、ちゃんと間に合ったでしょう……?
トレープレフ (ニーナの両手に何度もキスをしながら)うん、大丈夫、完璧だよ……!
ニーナ 一日中ずっと心配でたまらなかったわ、もう心臓がどきどきするくらい! お父さんがどうしてもここへ行かせてくれないんじゃないかって、気が気じゃなかったの……。
でもね、お父さんは今しがた継母といっしょに出かけてくれたのよ。
空が真っ赤に燃えていて、もうすぐお月さまが昇りそうでしょう?
だから私、一生懸命お馬を追い立てて、ここまで急いで飛んできたの!
(嬉しそうに笑う)ああ、でも本当に来られて嬉しいわ!
(ソーリンの手をぎゅっと力強く握りしめる)
ソーリン (嬉しそうに笑って)おいおい、なんだかおめめを泣きはらしているみたいじゃないか。
……ほらほら、困った困った、悪いお嬢さんだぞ!
ニーナ ううん、ちょっとだけよ……だって、ほら、こんなに息がすごくはずんでいるんですもの。
でもね、ここへいられるのは三十分だけ、すぐに帰るわ。本当に大急ぎなんだから。
お願いだから、長居させようなんて引きとめないでね。
ここへこっそり来たことは、お父さんには内緒なんだから。
トレープレフ そうだね、ほんとにちょうどもう始める時間だ。
みんなを呼んこなくちゃいけないな。ソーリン それじゃあ、わたしがちょいと声をかけて、とまあそういうわけだな。
よしよし、ただいま。
(右手へ歩きながら歌う)「フランスをめざして帰る、兵士のふたり連れ」……(振り返って)いつだったか、まあこんなふうに歌いだしたときにだな、ある検事補のやつめが、こう言やがった――「いや閣下、なかなかの美声ですな」……そこで先生、ちょっと考えてから、こう付け加えたのさ――「しかし……嫌な声だがね」(笑いながら退場する)
ニーナ お父さんも継母も、あたしがここへ来るのは大反対なの。
ここはボヘミアンのたまり場だわって……あたしがうっかり女優になんてなりやしないかって、心配でたまらないのよ。
でもあたしは、ここの湖にどうしても引きつけられちゃうの、まるで一羽のかめもみたいにね。
……胸の中は、あなたのことでいっぱいで、もうどうにかなりそう。
(あたりをきょろきょろと見回す)
トレープレフ 僕たちふたりきりだよ。
ニーナ 誰かいるみたい……気のせいかしら?
トレープレフ 誰もいやしないよ。
(そっとキスをする)
ニーナ ねえ、この木はなんの木なの?
トレープレフ にれの木だよ。
ニーナ どうしてあんなに真っ黒に見えるのかしら?
トレープレフ もう夜がふけてきたから、いろんなものが黒く見えるんだよ。
そんなにすぐ帰ろうとしないでくれよ、おやじの頼みだからさ。
ニーナ だめよ、どうしても帰らなくちゃ。
トレープレフ じゃあさ、僕のほうから君の家へ行こうか、ニーナ? 僕は夜通し庭に立って、君の部屋の窓を見つめているからさ。
ニーナ だめよ、番人に見つかっちゃうわ。
おまけに、番犬のトレゾールはまだあなたに慣れてないから、きっとものすごい声で吠え立てるわよ。
トレープレフ 僕は君が大好きなんだ。
ニーナ シーッ、静かにして。
トレープレフ (どこかから聞こえた足音に耳を澄ませて)誰だ? ヤーコフ、お前か?
ヤーコフ (即席の舞台の裏から)へえ、左様でございます。
トレープレフ みんな、それぞれの持ち場についてくれ!
もう時間だぞ。
お月さまは出たかい?
ヤーコフ へえ、出ております。
トレープレフ アルコールの用意はいいだろうね? 硫黄もあるよね? 赤い目玉が飛び出してきたら、すかさず硫黄の匂いをプンプンさせるんだ。
(ニーナに向かって)さあ、おいで、準備は万端整っているよ。
……なんだかすごく緊張しているみたいだね?……
ニーナ うん、すごくドキドキするわ。
あなたのママは――ううん、平気だわ、こわくなんかないもん。
でもさ、あの有名なトリゴーリンが来ているでしょう。
……あの人の前でお芝居をするなんて、あたしとってもこわいし、恥ずかしいわ。
……だって、あの人は本物の大作家なんですもの。
ねえ、トリゴーリンって、若いかたなの?
トレープレフ まあ、若いといえば若いけどね。
ニーナ あの人の書く小説、ほんとうにすばらしいわ!
トレープレフ (冷ややかな口調で)知らないな、読んだことないからさ。
ニーナ あなたの書いた劇って、なんだかすごく演じにくいわ。
だってお話の中に、本当の生きた人間が誰も出てこないんだもの。
トレープレフ 生きた人間だって! 人生というものを描くのに、目の前にあるがままの姿でもいけないし、かといって「こうあるべきだ」という理想の姿だけでもだめなんだ。
もっとこう、自由な空想の翼が生み出すような、そんな形じゃなくちゃいけないのさ。
ニーナ あなたの劇は、あんまり動きがなくて、ただセリフを読んでいるだけみたいなんだもん。
お芝居というものは、やっぱり甘い恋愛がなくちゃいけないと、あたしは思うのよね……(ふたりで即席の舞台の裏へと去っていく)
ポリーナとドールンが舞台に登場する。
ポリーナ なんだかあたりがすっかり湿っぽくなってきたわ。
一度お家に引き返して、オーバーシューズ(上靴)を履いていらしたらどう?
ドールン 僕は暑いくらいなんだよ。
ポリーナ それってまさに、医者の不養生ってやつだわ。
本当にもう、頑固なんだから。
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