初級翻訳・とけない問題 第5話

とけない問題

しかしたった一つの色がなんとなく陰気なあざやかさでまだ輝いていた……それはこの家の女の赤毛であった……女は両手を自分の髪の中に突っ込んで、目をみはったまま、硬直したように立っていた。
この日食さながらのシーンと、ブラウン自身その意味について深く疑っていた或るものとを思い合わせると、いままで胸につきまとっていた神秘的な詩句の記憶が表面にうかんできた。
そしていつの間にかブラウンはひとりつぶやいていた――「秘密の地……欠けて行く月下の地さながらに野蛮な魔法の地につきまとうは、悪魔のような愛人のために泣く女」(コールリジの詩「クブラ・カン」の一節)つぶやく声がますます混乱してきた。
「聖母マリアさま、われら罪人のために祈りたまえ……こりゃあれとそっくりじゃ……恐ろしいほどそっくりじゃ――悪魔のような愛人のために泣く女」
ブラウンは、女に近づきながら、ためらいがちで、ほとんどふるえていた。
しかしふだんのとおりおちついて話した。
絶えずジッと女を見つめながら、熱心に話した……あんたはいくら気違いめいたみにくいことだからといって、悲劇の単なる偶然の附属物のために病的な気持になってはいけない、と言い聞かせた。「お祖父さまの部屋にある絵は、わしらが見たあのみにくい画面以上に、あの方にとつては真実なのでした」とブラウンは厳粛に言つた。
「なんだかわしは、あの方がいい人だつたような気がします。
人殺し共があの方の死体をあんなにしたからといつて、それはどうでもいいことですわい」
「マア、あたしはお祖父さんの聖像や聖画にはムカムカしてるんです!」女は頭をそむけて言つた。
「もしあれがあなたのおつしやるようなものでしたら、なぜ自分の身を守らないのですか? だつて暴徒が祝福された聖母の頭を叩き落しても、別に何事も起りやしないじやありませんか。
ああ、何の役に立つものですか? あたしたちが人間は神さまより強いことに気がついても、あなたはあたしたちを責めるわけにはいきませんわ……責める勇気もないでしよう」
「まつたく、神さまのわしらに対する辛抱強さまで利用して、神さまに刃向かう武器にしようとするのは、高潔ではありませんぞ」ブラウン神父はごくおだやかに言つた。
「神さまは辛抱強いし、人間は性急なのかもしれませんわ……それにもしあたしたちが性急のほうがいいと思うようになつたら、どうでしよう。
あなたはそれを冒涜だとおつしやるでしようけれど、やめさせるわけにはいきませんわ」
ブラウン神父は妙にギクリとした。
「冒涜!」と言つた……それから急に決心したらしく改めてキビキビしたようすで戸口へ引き返した。
同時にフランボウが戸口に現われた……手に一束の紙をつかんで、興奮して蒼白になつていた。
ブラウン神父はもう口をひらきかけたが、せつかちな友人はそれより先きに話していた。
「やつと手がかりを突きとめましたよ!」とフランボウは叫んだ。
「この丸薬は同じに見えますが、実は別物です。
そしてどうでしよう、わたしがこいつを見つけ出したとたんに、あの片目の園丁の野郎が部屋の中に血の気のひいた顔を突き出しました……それに大型ピストルを持つていました。
わたしはそいつを手から叩き落して、奴を階段から投げとばしてやりました。
だがわたしは万事わかりかけています。
もう一二時間ここにいれば、わたしの仕事が完成します」
「それでは完成しませんわい」坊さんは、この人としてはほんとに珍らしいほどリンとした声で、言つた。
「わしらはここにもう一時間といられません。
もう一分といられません。
すぐここを出なければならんのじや!」
「何ですつて!」フランボウはきもをつぶして叫んだ。
「まさにわれわれが真相に近づきつつあるというのに! だつてたしかに奴らはわれわれを恐れているから、われわれは真相に近づきつつあるんですよ」
ブラウン神父は石のような不可解な表情でフランボウを見た――「奴らは、わしらがここにいるあいだは恐れやしません。
わしらがここにいなくなつたら、初めてわしらを恐れるでしよう」
二人とも、フラッド博士のかなりソワソワした姿が不気味なもやの中をうろついているのに、気がついた。
するとその姿が世にも荒つぽい身振りで前方に飛び出してきた。
「ストップ! 聞いてください!」医者は取り乱したように叫んだ。
「わたしは真相を発見したんです」
「ではそれを警官に説明なさるがいい」とブラウン神父は手短かに言つた。
「まもなく警察が来るはずです。
したがわしらは行かねばなりません」
医者は感情の渦のなかに巻きこまれたようであつたが、やつともう一度その渦から浮きあがると、絶望的な叫び声をあげた。
彼は両腕を十字架のようにひろげて、道をさえぎつた。
「それならいい!」と彼は叫んだ。
「わたしはもう真相を発見したなどと言つてあなた方をあざむくつもりはない。
ただ真相を告白するだけです」
「では、ご自分の坊さんに告白なさるがよろしい」とブラウン神父は言うと、目をみはつているフランボウをあとにしたがえて、サッサと庭の門のほうへ歩いて行つた。
門まで来ないうちに、別の人影が風のように前を横切つて突進してきた……そして園丁のダンが大声で叫びかけた……職務を捨てて逃げ出そうとしている二人の探偵をあざける、わけのわからない文句だつた。
その時坊さんはヒョイと身をかがめて棍棒のようにふりまわしてきた大型ピストルの一撃をうまくかわした。
しかしダンは、ヘラクレスの棍棒のような、フランボウの拳骨の一撃をうまくかわせなかつた……。
二人は、細道にペタンと倒れているダン君をあとに残したまま、門を通り抜けて外に出ると、黙つて車に乗りこんだ。
フランボウは一つ短い質問をしただけだつたし、ブラウン神父は「キャスターベリ」と答えただけであつた。ようやく長い静けさのあとで、ブラウン神父が言いました――「わしは、あらしはあの庭だけのことだと、うっかり信じそうになっておったが、ようやく魂(たましい)のあらしの中から逃げ出してきたところじゃ」
「ねえ、ぼくはあなたとはずいぶん長いお付き合いですがね」とフランボウが言いました。
「そして、あなたがこれが確かだという確かな証拠を見せてくだされば、ぼくはあなたの指示のままについていきます。
だけどまさかあなたは、あそこの雰囲気が気に入らないからというだけで、ぼくをあの魅力的な仕事から連れ出したわけじゃないでしょうね」
「なるほど、あそこはたしかに恐ろしい雰囲気でしたわい」ブラウン神父は静かに答えました。
「すさまじいし、猛烈で、うっとうしい。
だけどあそこで一番すさまじいのはこれじゃ――あそこには憎しみ(にくしみ)なんてまるきりなかったことじゃよ」
「だれかおじいさんを少しは嫌っている者がいたようですがね」
「だれひとり、だれのことも嫌っていなかったのじゃ」ブラウン神父はうめくように言いました。
「それがあの暗闇(くらやみ)の中でのすさまじいことだったのじゃ。
あれは愛情だったんだ」
「愛情を表現するのにしちゃあ、妙なやり方ですね――首を絞めた上に剣で突き刺すなんて」とフランボウは批評しました。
「あれは愛情だったのだ」と神父さんはくりかえしました。

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