そんな、どちらともつかない曖昧な生き物かもしれないものたちは、慈悲深いビジテリアン諸君としては、もちろん食べたり殺したりしないのだろうね?
ところがどうだ、諸君!
諸君がちょっと菜っ葉にお酢をかけて食べようものなら、そのとき諸君の胃袋に入って死んでいくバクテリアの数なんて、百億や二百億どころの騒ぎではないのだぞ!」みなさんが「よし、ブドウを一房食べるぞ!」というとき、その中には一体いくらの小さな細菌や酵母(ようぼ)がついていることでしょう。もっと言えば、みなさんが町の空気を「はぁーっ」と吸い込むたびに、多いときなら一回で一万匹くらいの細菌がやっつけられているんです。
そんなふうに、毎日ほかの生きものの命を犠牲にして生きながら、「私は菜食主義者(ビジテリアン)だから牛肉は食べません」なんて言うのは、牛肉なんていくら食べたって一つの大きな命の百分の一にもならないというのに――それを偽善(ぎぜん)と呼ぶべきか、それとも無知と呼ぶべきか、まったくお話になりません!
本気で動物がかわいそうだと思うなら、植物を食べたり傷つけたりするのもすっぱりやめなさい。
動物も植物も一切殺さないようにしたいなら、まずは水と食塩だけを飲みなさい。
水は最高の湧き水に限ります。それも、汲みたての新鮮なやつでなきゃダメですよ。少しでも置いておいたら、もうすぐバクテリアが入り込んじゃいますからね。
空気だって、高山や深い森の空気だけを吸いなさい。町の空気なんて論外です!
さあ、みなさん!今すぐどこか人のいないしんとした山の中に行って、おいしい空気とおいしい水、そして岩塩でもかじりながら、この「ビジテリアン大祭」とやらの続きをやるがいいんです。
……おい、ここはだめだ!ここの空気は吸っちゃいけないよ。
吸っちゃいけないんだからね!」
会場からはパラパラと拍手が起こり、クスクスと笑い声も漏れましたが、多くの人たちは黙り込んで考え込んでいました。
さっきまで反対論を叫んでいた男は、「やったぞ」と言わばかりの大得意な顔で、先ほど懺悔(ざんげ)してビジテリアンになったばかりの友人をチラリと振り返り、自分の席へと引き揚げていきました。
すると、私が驚いたことに、この瞬間まで腕を組んでじっと座っていた陳(ちん)さんが、いきなりすっと立ち上がったのです。
中国服のままで祭壇に歩み出ると、はじめて私の顔を見て、ちらっとかすかに会釈をしました。
それから、とても落ち着いた、流暢な英語で反論の演説をはじめたのです。
「ただいまの反対のご意見は大変おもしろく、私もぜひ今すぐ空気を吸うのをやめたいと思いましたが、その前にひとことだけお返事をさせていただきたいと思います。
どうかそのお返事が終わるまでの間だけは、空気を吸うことをお許しくださいね。
さて、ただいまのご意見によれば、『真のビジテリアンたるもの、無菌の水と岩石ぐらいしか食べてはならない。そして海抜二千尺(約六百メートル)以上の高いところで生活すべきだ』ということでした。
たしかに、私たち人間の中には、一酸化炭素と水からお砂糖を人工的に作り出す研究をがんばっている人だってもちろんいます。
けれども、ここでは『生物はすべて連続している(つながっている)』という先ほどのお話がなかなかに面白かったようですから、その考え方をいろんな角度から当てはめて応用してみましょう。
つまり、人類から、ほかの哺乳類(ほにゅうるい)、鳥類、爬虫類(はちゅうるい)、魚類、それから節足動物、軟体動物、さらには原生動物へ、そしてそこからクルリと方向転換して植物、細菌類、さらには多細胞の羊歯(しだ)類や花を咲かせる顕花植物(けんかしょくぶつ)へと、命はこうしてずっと一本の線のようにつながっている。だから、『もし動物がかわいそうなら、生物みんなかわいそうになれ!顕花植物なんかだって、食べても切ってもいかんのだ!』というわけですね。
しかしですよ、この『つながっている』という理屈を持ち出すなら、世の中には他にもつながっているものがいくらでもあるのです。
たとえば、人間の『一生』を見てみましょう。嬰児(えいじ)期、幼児期、少年少女期、青年処女期、壮年期、老年期……と、このようにずっとつながっていますよね。
ところが、これは人間が便宜上(べんぎじょう)に勝手に分類しているだけで、実際にはどの時期もきれいにつながっていて、はっきりとした境界線なんてどこにもありません。
ですから、もしも『四十歳になる大人が代議士(だいぎし)に立候補できる』というなら、『生まれたばかりの赤ちゃんだって、同じように代議士を志願して、フロックコートを着て政見を発表したり、燕尾服(えんびふく)を着てパーティーに出席したりしなければならない!』ということになってしまいます。
あるいは、小学校の一年生にアルファベットの『A・B・C』を教えるのなら、『なぜ大学校でも、文学より見たる理論化学の難点とか、相対性学説の難点とかそういう難しいことばかりやらないで、大学でもA・B・Cを教えないのか!』――こういうおかしな話になってしまうではありませんか。
また別の例を出しましょう。もともと『変態心理(精神の病)』と『正常な心理』というのも、なだらかにつながっているものです。だからといって、『人類はすべて、気違い病院の鍵を今すぐ開けて解放するか、あるいは人間全員が気違い病院に入らなければならない!』――そんな結論になってしまいますよね。
このヘンテコな議論が、一見すると『菜食主義』だけにぴったり当てはまるように思えるのは、そう主張している本人が、この問題をまだ一度も真剣に考えず、誠実に実行したことがないという動かぬ証拠なのです。
世の中には、こういう極端な議論がよくあるものなのですね。
ですが、どんなに物事が連続してつながっていたって、その『両端』を見れば、ものすごく違っているのです。
太陽の光をプリズムに通した『スペクトルの七色』を見てごらんなさい。
あれだって虹の端と端には赤と紫があって、真ん中には黄色があります。両端があまりに違っているのですから、どうしようもないではありませんか。
植物に対しても、それを憐れみ、いじらしく思う気持ちはもちろん大切です。
インドの聖者たちの中には、実際に、理由もなく草を刈ったり花を踏んだりすることを戒(いまし)めた人たちもいました。
しかしそれでも、植物を大切にするのと、ウシを命がけで殺して食べるのとでは、そこには大変な距離があるのです。
そんなことは、普通の常識があれば誰にでもわかります。
人間から体の構造が遠ざかるにつれて、だんだん命の意識も薄くなっていくのかどうか――それは私たちには少しもわかりませんが、とにかく私たちは植物を食べるとき、動物を殺すときほどにはひどく苦しみ悩みません。
私たちの心と体は、そこがちゃんとうまく釣り合うようにできているのです。
バクテリアのことが先ほどからとても大騒ぎされていましたが、そもそもバクテリアがそこにいるのを意図せず殺してしまうようなことは、ウマを一頭殺すのとは比べものにならないほど大きな違いがあります。
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