」(間)その誘惑にとりつかれているばかりに、あの人は俺の言うことを聞かず、俺を愛そうともせず、いつもあの淋しい荒海の、荒れ果てた浜辺ばかりを恋しがっているのだ。
(沈黙)だが、いよいよ明日の夜には、あの音楽堂の競技場で、すべてのことがはっきりと現れ、すべてが決着つくだろう。
従者「すべてが現れ、すべてが決着するとは、どういうことでございますか?」
領主「あの人をまどわせている、誘惑の正体が姿を現すということさ。
(心配そうに)あの人の心が俺の方を向くのか、それとも誘惑の主に従ってしまうのか、すべては明日の夜、あの音楽堂の中で決まるということなのさ。」
従者「明日の夜、あの音楽堂で、お殿様が国中にふれを出して集められた有名な音楽家たちが、それぞれの得意な曲を演奏するのだと聞いておりましたが、それが誘惑の主を暴くための手段なのでございますか?」
領主「その通りだ。
国中から集まった音楽家の中に、めざす悪魔がいるはずなのだ。」
従者「いったい、どんな格好をしているのでございましょう?」
領主「紫のローブを着て、月桂樹の冠をかぶり、銀の竪琴を持った若い音楽家で、騎士よりも気高い雰囲気をまとっているという話だ。
そしてそいつが好んで弾く曲は、短嬰ヘ調(たんえいへちょう)で始まる、『暗闇と血の薔薇』という誘惑の曲なのだそうだ。」
従者「紫のローブを着て、月桂樹の冠をかぶり、銀の竪琴を持った、若い音楽家でございますか。」
領主「(うなずきながら)そういう格好をした音楽家が、あの人の心を狂わせ、不義の罪を犯させる誘惑の本体なのだ。」
従者「どうしてやお殿様は、それが間違いないとお気づきになられたのでございますか?」
領主「あの人がそう言ったのだ。」
従者「それは不思議なことでございますなぁ。」
(従者は考え込む。
その時、領主の一人息子であり、先妻の忘れ形見である若様が暮らす高い塔の上から、バイオリンの音が聞こえてくる)
領主「(耳を澄ませながら)あれは誰が弾いているのだろうな。」
従者「(高い塔を見上げて)若様でございます。」
領主「(耳を澄ませたまま)あの切れ切れに響く悲しげな音は、まちがいなく短ホ調(たんほちょう)だ。」
従者「なんだか涙がこぼれてきそうな音でございまする。」
領主「(耳を澄ませながら窓辺を離れ、高い塔の方へ歩み寄りながら)そうだ、確かに短ホ調だ。ああ、短ホ調が歌っている。」
従者「一体、何と歌っているのでございましょう?」
(領主は何も言わずに耳を澄ます。
従者もその後ろにぴったり寄り添って耳を澄ませる。
バイオリンの音色に連れて、死にゆく人魚の歌が聞こえてくる)
幻の美しければ
海の乙女の、
あわれ人魚は
舟を追う、
波を分けて舟を追う、
月は青褪めぬ、
屍に似たる水の色。
領主「(ショックを受けて)あれは『死にゆく人魚』の歌だ……!」
従者「(声をふるわせながら)ああ、なんて不吉な前兆でございますか。」
領主「一度だってみんなの前で歌ったことのないあの歌を、よりによって今日に限ってあいつが歌うとは、いったいどういうことだ……?」
従者「決してよい前兆ではございません……。」
領主「歌う声も、弾く節回しも、前の妻とそっくりじゃないか。」
従者「そっくりでございます、本当に不吉な前兆でございます……。」
領主「若は最近、どんな様子で暮らしているのだ?」
従者「近頃はいつも、自分の部屋に閉じこもりきりでございます。
そのご様子は、なんだか色々なことに疲れ果て、思い詰めてぐったりしていて、心配事で胸も心もいっぱいなように見受けられます。
……ですが……(と言いよどむ)」
領主「ですが、どうしたというのだ?」
従者「お気に召さなかったらお許しくださいませ。
(言いにくそうに)あの、今度この館にいらっしゃった女性と、何度も人目につかない場所でお話しされているのをお見受けしたのです。
……その時に限って、若様のお顔の色もご様子も、生き生きとして、とても嬉しそうに見えるのです。」
領主「(顔色をガラリと変え、苦しそうに)ああ、ああ……!」
(と、その場に倒れそうになる)
従者「(慌てて支えながら)お殿様、どうなさいました!?」
領主「いや、なんでもない……。
ああ……!」
(と言って、再び倒れそうになる)
従者「どうかなされたのでございますか!?」
領主「そうだ、そうだ、それに違いない……!
若が、若が……やっぱり思った通りだ……!」
従者「若様がどうなされたのでございますか?」
領主「若があの女を……!」
従者「(高い塔を見上げながら)もしや若様が、あの女性に恋心を抱いていらっしゃるということなのでございますか……? 私ももしかしたらと思っておりましたが……!」
領主「それに間違いはない……!
若はあんなふうに情熱的であるうえに、年齢も若ければ血気も盛んだ。
そのおまけに、母親に似て恋の美しい幻影には人一倍あこがれてしまう性格の若者なのだからな。
(深く考え込みながら)それに、若も明日の夜の音楽の競技に出場すると言っていなかったか?」
従者「はい、それはもう大変な意気ごみでございます。
必ず勝負に勝って、月桂冠を手に入れると申しておりまする。」
領主「ふむ、必ず勝って月桂冠を手に入れると申しているのか……。」
従者「はい、そう言ってものすごい気合でございます。」
領主「ただの月桂冠が手に入ればそれで満足だと言っているのか?
(きっぱりと)いやまさか、そんなはずはあるまいがな。」
従者「はい、月桂冠と一緒に、美しい『贈り物』を手に入れるのだと申しておられます。」
領主「いよいよ、あの女を手に入れるつもりなのだな……!」
(激しい苦しみに悶えながら、寝台に倒れ込む。
従者は驚いて慌てて助け起こそうとする)
従者「お殿様、どうなされたのですか……!」――その美しい贈り物とはいったい何なのですか。
領主 (苦しそうに)あの女のことだ。
俺が国中の騎士や音楽家たちを呼び集めるための口実として、あの女を勝利の贈り物にすると仕立て上げたのだ。
何百人の音楽家が集まってくるかはわからないが、その中の最後の勝者には、月桂冠と一緒にあの美しい女の身を贈り物として授けるとふれ回ったのだ。
若はそれを本当のことだと思い込んで、だからこそ競技に出るつもりなのだろう。
従者 それは驚きでございますが、本当にお殿様は、あの女を勝利の贈り物としてお渡しになられるのでございますか。
領主 まさか、とんでもない。ただそのように言いふらして、世間の音楽家たちを誘い出すための嘘さ。
そうやって言わなければ、肝心の相手が来ないではないか。
あの女の心を捉えている、憎い誘惑の主がやって来ないではないか。
従者 それでは、あくまでおびき出すための手段でございますな。
領主 その手段とは知らずに、若はあの女を手に入れようとして競技の場に出ていくつもりらしい。
(二人はしばらく無言。
もはや高い塔からはバイオリンの音色は聞こえず、夕日はますます美しく輝き、音楽堂のまわりを照らし出している。
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