そして、主人が休むころには、召使いたちももう寝静まっておりましたし、戸締りも完ぺきで、抜け出す隙間などどこにもなかったのです」
「妙ですね。まさかお嬢さんが煙のように消えてしまったわけでもありますまい。きっとどこかに見落としがあるはずですよ」
「でも、戸締りに関しては間違いございません。警察でもいろいろと調べてくださいましたが、刑事さんたちも『どうも不思議だ』とおっしゃるばかりなのです」
「朝の間に出ていかれたようなことはありませんか?」
「それは……小間使いの小松という者が朝の郵便を持ってまいりまして、三千子のベッドが空であることに気づいたのですが、その時分はまだ表の門も開けておらず、書生が玄関先を掃いておりましたし、勝手口の方も鍵を開けたばかりで、女中たちはみんな勝手にいたのですから、誰にも知られずに出ていくなんてことは不可能なのです」
「お嬢さんが家出をするような原因も、特にはないとおっしゃるのですね」明智は質問を続けた。
「はい、少しも心当たりはございません。ただ、わたくしが後妻という立場ですので、妙な邪推をされないかと、それだけが辛うございます。ですから、わたくしの立場としましても、一日も早く三千子の安否が知りたいのです。こうして主人の留守中にこちらへ伺いましたのも、そんな訳で、じっとしていられなかったからです」山野夫人は、もう二三度も繰り返した彼女の苦しい立場を、またくどくどと説明した。
「縁談とか、他に何か恋愛というようなことはなかったのですか?」
「縁談は二三ありましたが、どれも本人が気が進まないと言って断っておりますし、他に誰かということも……」夫人は何かを言い渋っているように見えた。
「では、ご主人が大阪の方へ行かれたといいますのは?」明智は夫人の急所を突いた。
「はい、それはあの……」夫人はどぎまぎしながら、「あちらに三千子の大好きな叔母が住んでおりますので、主人はもしやそこに隠れているのではないかと申しているのです」と言った。しかし、今山野夫人が言い渋ったのは、もっと別の事柄であるように見えた。
「伺っただけでは、随分と不思議な出来事ですね」明智は考えながら言った。「今の、出口が全くない家の中で、お嬢さんの姿が消えてしまったというようなことも、実際そんなことは不可能なんですから、どこかにごくつまらない、あとから思えば笑い話になるような思い違いがあるに違いありません。そして、その点が明らかになれば、意外とあっけなくお嬢さんの居場所が分かるかもしれませんよ。一度、私にお嬢さんの部屋を見せていただけないでしょうか。ひょっとしたら、わけなく謎が解けるかもしれません」
「ええ、ぜひ! どうかお願いいたします。では、ちょうど車を待たせておりますから、今からお出かけいただけませんでしょうか」
そこで、明智が着替えるのを待って、三人は菊水旅館を出た。明智は上海から持ち帰った自慢の中国服を着て、合の中折れ帽をかぶった。彼は数年前と比べると、この頃はいくらか見栄っ張りになっていた。自動車の中では、三人ともあまり言葉を交わさなかった。それぞれが別のことを考えていたからだ。
「ごくつまらないこと、素人が考えて馬鹿馬鹿しいようなことが、謎を解く場合には随分と重大な役割を果たします。特に犯罪には、常軌を逸した馬鹿馬鹿しいことがつきものです。そういうものを馬鹿にしないことが、犯罪を解く者の秘訣です……こんなことを、外国の有名な探偵家が言い残していますよ」
明智は誰に言うでもなく、ひとりごとをつぶやいていた。三人掛けのクッションシートに、山野夫人・百合枝を真ん中にして、右に明智、左に小林紋三が腰かけていました。
車が揺れるたびに山野夫人の膝が自分の膝に触れるので、紋三はだんだんと身をすくめて、隅の方へと小さくなっていきました。
それでも、彼はこの初めての経験を、自分なりに楽しんでもいたのです。
車はやがて隅田川を渡り、川沿いに向島へと向かいました。
吾妻橋を通り過ぎる時、紋三は今朝の不愉快な出来事を思い出していました。
するとまたしても、三千子の行方不明と、例の奇怪な一寸法師が持っていた生々しい片腕とが、不吉な連想となって彼の頭に浮かんできました。
山野氏の自宅は、向島の小梅町という閑静な場所にありました。
自動車は威勢よくクラクションを鳴らしながら、立派な冠木門をくぐっていきました。
掃き清められた砂利道を通って、車は日本建築の玄関先に横付けされました。
その和風の母屋の右側には、かぎの手の形に小さなコンクリート造りの二階建て洋館があり、母屋から少し離れた左側には木造のガレージが見えていました。
決して大邸宅というほどではありませんでしたが、どこか豊かな暮らしぶりが感じられるお屋敷でした。
玄関を上がると、山野夫人は出迎えた書生に何事か尋ねている様子でしたが、やがて長い廊下を通って、二人を洋館の階下にある客間へと案内しました。
あまり広くはありませんが、壁紙、カーテン、絨毯の色合いや家具の配置に細かい気配りがなされており、かなり居心地の良い部屋でした。
部屋の一角にはピアノが置かれ、そのつやつやした表面に絨毯の模様を映し出していました。
「履物は確認されましたか」
白麻でカバーされたひじ掛け椅子にドッカリと腰を下ろすと、明智はぶっきらぼうにそんな妙なことを尋ねました。
「ハア?」
夫人は彼の突然の突拍子もない口調に少し驚き、微笑みながら聞き返しました。
彼女は一度日本間の方へ立ち去ろうとしていたのを、明智が話しかける様子を見て、思い直して椅子に戻ってきたのです。
「家出をされたのであれば、お嬢さんの履物が一足なくなっているはずですね」と明智が説明しました。
「ああ、それでしたら、ふだん使いの粗末な履物が見当たりません。それと、ショールと小さな網の手提げ袋がなくなっています」
「着物はどんなものを……」
「いつもの常着のままでございます。黒っぽい銘仙なのです」
「するとつまり」明智は皮肉っぽく言いました。「一方では厳重な戸締りがあって一歩も外へ出られないはずなのに、もう一方ではショールだとか履物だとか、家出をした証拠がそろっているというわけですね」
「左様でございますの」夫人は困惑した様子で答えました。
「では、一つこの洋館の中を見せていただきましょうか」
明智はそう言うと、さっそく立ち上がりました。
階下は客間とその隣にある主人の書斎との二部屋だけでした。
明智は書斎を一通り眺めてから、外の廊下の突き当たりにある階段を上っていきました。小林と山野夫人がその後に続きます。
二階は三つの部屋に分かれていて、その全体を一人娘の三千子が自分の空間として使っていました。
部屋の様子から、三千子がそれほど几帳面な性格ではないことが見て取れました。
化粧室では、姿見の前に様々な化粧道具が乱雑に並べられていました。
書斎では、本棚や机の上が無秩序に散らかっていました。
夫人は一つひとつの戸棚や押し入れを開けて見せました。机の引き出しから最近の手紙類も出して見せてくれましたが、何一つ明智の興味を引くものはありませんでした。
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