私は毎日うちの裏の河原へ出ては、ぼんやりとその山を眺めていました。
お姉ちゃんが話してくれた山の上の、あの青くて古い池の色までが、じっと佇んでいる私の目にひとりでに浮かんでくるような気がしました。
何でも非常に静かで、うっそうとした雑木林に囲まれた池の水面に、木の葉がそよぐような小さな波が立ち、それが池の沖へ向かってちょろちょろとメダカのように走っていく様子や、そういう静かな日に限って水面に浮かんでくるという、あの赤いイモリたちが水底からすうっと水面を目指して泳ぎ上がってくる様子までが、いつも頭の中にありありと浮かんできました。
それが何ということもなく不思議で珍しくて、まるで本当に現実にあるとは思えないようなことのように感じられて仕方がなかったのです。
山の色は、うすい藍色のときもあれば、鼠色のときもあり、あるいは一面の牛乳色をした霧の中から紫色の頭をひょっこり現したり、ちぎれた雲の間にちょこんとそびえて見えたりしていました。
それを見るたびに、私はなんだか眩暈(めまい)がするような、すうっと心が吸い込まれるような気持ちで、その山の奥深くにある池のことを飽きることもなく思い描いていたのでした。
お姉ちゃんは庭に出るたびに私の姿を見つけ出すと、ぼんやりと佇んでいる私の後ろからそっと忍び寄って、驚かせるのでした。
「あの池について、すごく面白い話があるんだよ。お前、知っているかい? 知っていたら面白くないもんね」
お姉ちゃんはわざとそうやって私をじらしてから、すっとそばから離れようとしました。
「知らないよ、お姉ちゃん、教えてよ!」
「本当に知らないの?」
お姉ちゃんはいつもの癖で私の右肩に手を置き、あの杏の香りが漂う草むらに生えた木の根っこに、ちょこんとしゃがみ込みました。
ちょうど春が始まったばかりの頃で、芽生えたばかりの草の中には茜色をしたものや紫がかったものなど、さまざまな雑草の芽がまるで花のようにひょっこり顔を出していて、あるものはかなり高く伸びていました。
私がもう一度お姉ちゃんにねだると、お姉ちゃんは足元の雑草の頭をぽつんぽつんと器用に引き抜きながら、話を続けました。
「いつかお話したとき、ほら、薬草狩りって言ったのを覚えているでしょう? あれはずっと昔のことでね、お城の城下町にある大きなお薬屋さんたちが、毎年春の終わりになるとみんなで隊を組んで、あの医王山へ登るんだそうだよ。
いわば、お山開きみたいなものなんだね。
そんなときは、みんな揃ってごちそうをこなし、山神様にお供えする鏡餅だとか、お米だとか、その年の一番はじめに採れた珍しい野菜などをたくさん積んで出かけるの。
ちょうど町を朝のまだ暗いうちに出発して、長い五里の山道を駕籠(かご)に乗って山の麓まで行くんだよ。
そこへ着くころにはちょうどすっかり夜が明けて、霧につつまれた山の麓の村の家々が、やっと目を覚ましたばかりの頃なんだ」
お姉ちゃんは、その医王山の麓というのは、戸室山に挟まれた小さな村なんだよと説明を付け加えながら、こう続けました。
「そのお山開きについて、とっても面白い言い伝えがあるんだよ。
城下にある古い木薬屋さんで、丁字屋(ちょうじや)っていうお店があるでしょう?
あそこの家の人たちも、毎年お山詣りに行っていたそうなんだけど――ある年の春、いつものようにみんなで、あの大きな池のふちで持って来たお重箱を開いてごちそうを食べたり、お酒を飲んだりしているうちに、その一行の中にいた娘の『お蝶(ちょう)』ちゃんが、急に姿を消してしまったんだって。
みんなは大慌てで辺りを探してみたけれど、どこにも見当たらない。
谷間や雑木林の奥を探しても、影も形もないんだ。
とうとうその日も暮れてしまったので、みんなはその晩、麓の村のお寺に泊まって、次の日も朝から探し回ったんだけれど、どこを探しても娘らしい姿は見つからなかったのさ」
お姉ちゃんはさらに話を続けました。
「父親は、ある晩、夜がすっかり更けてから、そっと娘の部屋の様子を覗いてみたんだ。
木の葉の上に夜露がキラキラと光るようなころになると、娘の部屋の障子が、すうっとひとりでに開きはじめたんだよ」ふしぎなこともあるものだと、よく気をつけて見てみると、まちがいなく娘が半身を障子の外へあらわし、庭を覗いていました。が、きゅうに音もなく庭へ下り立ったのです。
しかも素足のままでした。
あんな体つきでよくまあ歩けたものだと思えるほどでした。
どうするのだろうと見ていると、今度は擬宝珠(ぎぼし)のかげへしゃがみ込み、すうっと、蒼白い、まるで麻(あさ)のように晒(さら)された手を伸ばしました。
いったい何をするのだろうとじっと見つめていると、その白い手が擬宝珠のかげへ突っ込まれるやいなや、ふいに、その草むらから一匹の赤蛙が飛び出しました。
すると娘の手は、その赤蛙が飛んだあとを追いかけて、最後に上からぐっと押さえつけました。
そうしてからあたりを見回すと、その手をすういと自分の口もとへと持っていきました。なんと、赤蛙はいつの間にか娘の口の中に呑み込まれてしまったのです。
そのとき娘は、まるでこれまでに見たこともないような不気味な、片目をつぶったような笑みを浮かべ、うまそうにその赤蛙を呑み込んでしまったのでした。
それを見ていた父親は、まるで体中がしびれるような恐ろしい寒気を感じました。
まさか自分の娘がそんな恐ろしいことをするなんて一度も考えていなかっただけに、そのショックは一層大きなものでした。
見ているうちに、ブルブルと震える体を必死に鎮めながら眺めていると、娘は次から次へと何匹もの赤蛙をつかまえては食べていきました。
そして庭をあちこち歩き回りながら、草さえ生えていれば手でかきさぐっていました。
その歩くときの不気味な足音といったら、まるでゴムの上でも歩いているかのような、音のしないような、なんだか遠くで鳴る変な音なんです。
そうして三十分ほどがすぎると、娘はまた音もなくすうっと自分の部屋へと這い入っていきました。
そのとき、なぜか障子のぎわへと姿が消える瞬間、父親の目には、細長いものの影がずるずると、湿っぽくて暗い音をたてながら、すっと障子の中へ消えていくのが、見えるともなく目に飛び込んできたそうです。
そのとき、体中にしんと静まり返るような不思議な寒気が、骨の髄まで染み通ってくるような気がしたそうです。
しかも、その最後に見た障子の内の影は、まるで鼠の尾のような、細くて鋭い影だったそうなんです。
私はそのとき、あまりの不思議さに、こういうときには誰もがするように、お姉ちゃんの顔をただじっと凝視しつづけていました。
うららかな光の影が杏の梢(こずえ)をすべり、私たちがしゃがんでいる足もとにもさらさらとこぼれ落ちていて、そのおかげで芽生えたばかりの青い草が一段と鮮やかな色を輝かせていました。
「その影はいったい何んだろう、鼠の尾のようなものって……」
私は思わずそう問いかけました。するとお姉ちゃんは笑って、こう言ったのです。
「あとで分かるから黙って聞きなさい。それからね、その父親が毎晩のように、娘が庭に出て蛙を食べるのを見たそうなんだ。
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