初級翻訳・人柱の話 第8話

人柱の話

あるいは言うことには、この中に妖怪がいて、時々内側から戸を開けるのが見え、老婆のような姿の者が見えるという。多くの人たちの噂話はこのようなものだ」と書かれています。

これは、ドイツで人柱の代わりに空の棺桶を埋めたように、人間の死体の代わりに葬式の乗り物を天井に吊り下げて、その建物のヌシとしたのではないでしょうか。

同じ本の巻30には、「世間で言うには、姫路の城の中にオサカベという妖怪がいて、城の中に長年住んでいる。あるいは言うことには、天守閣の一番上の層にいて、常に人が入るのを嫌う。一年に一度、その城主だけがこの妖怪と対面し、それ以外の人は怖がって登らない。城主が対面するときには老婆の姿を現す、と語り伝えられている。(中略)姫路に一泊したとき、宿の主人に尋ねてみると、確かに城の中にはそのようなこともあるそうだ。この場所ではハッテンドウと呼んでおり、オサカベとは言わず、天守櫓の脇にこの祠(ほこら)があって、その神に仕えるお寺の僧侶がおり、城主も深く尊んで仰いでいるとのことだった」とあります。

『老媼茶話(ろうおうさわ)』には、加藤明成が猪苗代城の城代として堀部主膳(ほりべしゅぜん)を置いたときのお話があります。寛永17年の12月の終わり頃、主膳がひとりで座敷にいると、一人の禿(かむろ:おかっぱ頭の子ども)が現れて、「あなたは長く城にいるのに、いまだにこの城の主人にお目にかかっていない。急いで身を清め、礼服を着て、敬意を払って御目見えしなさい」と言いました。主膳は怒って、「この城の主人は主人の明成であって、城代は自分だ。ほかに城主なんているはずがない」と叱りつけました。すると禿は笑って、「姫路のオサカベ姫と、猪苗代の亀姫を知らないのですか。あなたの命の数ももうおしまいですね」と言って消えてしまいました。

翌年の元日、主膳が武士たちの新年の挨拶を受けようとして礼服を着て大広間へ出てみると、上段の席には新しい棺桶があり、その脇には葬式の道具がずらりと揃えられていました。その日の夕方、大勢でお餅をつくような音が聞こえてきました。

そして1月18日、主膳はトイレの中で病気になり、20日の夜明けに亡くなりました。
その夏、柴崎という武士が七尺(約2メートル10センチ)ほどの大きな大入道(僧侶の姿をした妖怪)を斬り伏せたところ、それは古い大きなタヌキでした。それ以来、不思議な怪事件はピタッと絶えたと書かれています。

『垂加文集』の『会津山水記』には、「会津城は鶴ヶ城と呼び、猪苗代城は亀ヶ城と呼ぶ」と書いてあります。これは、鶴と亀の名を付けた二人の娘を生埋めにしたことによる名前でしょうか。

また、姫路城主・松平義俊の小姓(お供の少年)である森田図書(もりたずしょ)が14歳のとき、同僚と賭けをして提灯(ちょうちん)の灯りを頼りに天守閣の7階まで上ったところ、34、5歳ほどのいかにも気高いうぬき十二単(じゅうにひとえ)を着て読書をしている女性を見つけました。その一部始終を話すと、「ここまで確かに登ってきた証拠に」と言って、自分の兜(かぶと)のシコロ(首を守るパーツ)をくれました……と書かれています。城へ登っていく途中で、三階目に行くと大入道(お大きな妖怪)に火を吹き消され、また引き返して、彼女に火をつけてもらって戻ってきたというお話があります。
この気高い女性こそが、きっとオサカベ姫なのでしょう。
『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』などを見ると、オサカベはキツネであって、時々いたずらをして人を困らせていたらしいのです。

さて、ラルストンの説によると、ロシアの家々のヌシ(「ドモヴイ」という家の精霊)は、たびたび主人のような姿を現してその家を経済的によく取り締まり、良いことや悪いことが起こるたびにそれを知らせてくれるのですが、同時にたびたびいたずらもするといいます。
そして、家や城を建てるときに生け贄にされた人間や動物たちが、その家のヌシになるのだそうです。
ここから推測すると、亀姫やオサカベなども、人柱に立てられた女性の霊が城のヌシになり、のちにキツネやタヌキと混同されたのだろうと思います。

また、わたしの幼い頃、和歌山に橋本という士族(武士の家系)がいて、その家の屋根には白く加工された馬の頭の骨が飾ってありました。
昔、その家の祖先が敵に殺されたと聞き、その妻が長刀(なぎなた)を持って駆けつけたものの敵は見当たらず、せめてものの怒りの発散として敵の馬の首をはね、その首を持ち帰って置いておいたのだと聞いたことがあります。
しかし、柳田国男くんの『山島民譚集(さんとうみんたんしゅう)』のその一を見ると、馬の頭の骨を柱に掛けて家を鎮めて災いを除くためにしたり、あるいは家の入り口に立てて魔除けにしたりするなどの例が挙げられています。それを見ると、橋本氏の家にあれがあったのも、デンマークで馬を生きたまま埋めるのと同じように、「家のヌシとしてその霊が家を守ってくれる」という信仰心から行われたものだと考えることができます。
柳田くんが遠州相良(えんしゅうさがら)あたりの崖の横穴に、石塔とともに安置した馬の頭の骨などを発見しているのも、馬を生け贄として埋めた古い風習のなごりで、その崖が崩れないようにするために置いたものなのだろうと思います。

わたしはあまりくわしく知りませんが、日本でも、上述した英国のパウリー(家の精霊)やロシアのドモヴイに似た、奥州(東北地方)の「ザシキワラシ」、三河や遠江(とおとうみ)の「ザシキ小僧」、四国の「赤シャグマ」などの怪異がいます。
家の仕事を手伝ったり、人を驚かせたり、これから起こる良いことや悪いことを前もって教えたり、時々いたずらをしたりする様子は、ヨーロッパに伝わるお話となんら変わりません。
これらはすべて、人柱に立てられた人たちの霊なのではないでしょうか。その中には、昔、新築の家を丈夫にしようとして生け贄として殺された人たちの霊も、多少は含まれていることと思います。

飛騨や紀伊(きのくに)などの地域には、年老いた人を山などに捨てて死なせたという言い伝えの場所(姥捨て山)があったり、京都の近くには近年までものすごい数の赤ん坊を圧殺して埋めた墓地があったりしました。『日本書紀』を見ると、はっきりと「大化の新政の詔(みことのり)」の中に、その頃に至っても人が死んだ時に自ら首を吊って殉死し、また他人の首を絞めて殺し、さらに無理やり死人の馬まで一緒に殺して殉殺したと書かれています。そのため、垂仁天皇(すいにんてんのう)が殉死を禁じた命令も、まったく行われなかったのだということがわかります。

さて、『令義解(りょうのぎげ)』には、信濃国(しなののくに)では妻が亡くなった夫の後を追って殉死する風習が行われていたと書かれています。
久米邦武(くめくにたけ)博士(『日本古代史』855頁)も言われた通り、その頃の地方の特別な風習は国の歴史書に記録されることがめったになかったため、くわしく調べる方法はありませんが、身分の低い奴婢(ぬひ)や賤民(せんみん)が多くいた地方では、人権などないも同然だった男女や子どもを家の土台に埋めたということが必ずやあったはずです。

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