生きることは、ただ怠けることのようだった。ジェラール・ド・ネルヴァルという男がいた。彼は今、パリにその名を残している街頭で、街路樹に首を吊って死んだのだそうだ。人が死ぬ。すると友達が追憶する。「あの人は仁侠でした」「あの人はケチでした」「あの人は天才でした」「あの人は残酷でした」と。人々には、そうした習慣があるものだ。
詩人の世界も同様だった。
ネルヴァルの友人たちも、それぞれの追憶文で彼の一生を飾ってやったが、彼らの評価に共通している一つの言葉は「怠け者」ということだった。
ネルヴァルは誰の目にも、文句なしの怠け者であったらしい。
野々宮は、雑然とした百行の文章よりも、一行の人生を愛していた。
ネルヴァルもそうであったに違いない。
そして、そのこと自体が、すでに一つの自殺なのだ。
ネルヴァルもまた、生きやすくて仕方がなかったに違いない。
歴史にその名を残すほどのこの怠け者の詩人ですら、自殺のために五十年の月日を浪費している。
まったく、自殺のために浪費していた五十年にすぎないのだと、野々宮は思った。
そして彼は、笑い出したくなるのだった。
生きることは、ただ、怠けることにほかならないのだ。
自殺とは、人が自分を殺してしまうことではない。
野々宮はそう思わずにはいられなかった。
少なくとも、ここに「純粋自殺」とでも呼ぶべき一つのものがあり、人が自分を殺すこととは種類が違っているのである。
野々宮の心には、常に冷たい一つの凝視が絶えることがなかった。
その視線が凝視しているところが、自殺ではないのだ。
自殺というものが、じっと何かを見つめ続けているのである。
この数年、常に冷たい自殺の凝視を感じ続けながら生きてきたのだ。
いや。
怠け続けていたのであった。
自殺という親愛なる監視の下に、ようやく揺りかごの中のような眠りを求めることもでき、生きやすい日々をむさぼり得たのだ。
この冷たい凝視。
今夜死ぬことも自然であった。
今、歩いているこの足で。
とにかく休む店はないかと野々宮は思った。
冷たい凝視は、それでよかった。
今夜死んでしまうにしても、怠けるにしても。
――想念の明滅がやりきれないのだ。
砕けそうな頭の始末に困るのだった。
「え、卓一さん」
越後新報の応接室で、大寺老人が言ったのである。
「あんたも、ダンスを習わないかね」
卓一は、残った仕事を片付けてくるからと言って、背伸びをしながら立ち上がったところであった。
「はははは。どうも退屈だな」
卓一は、肩先で扉をぐいと押すようにして、姿を消してしまったのだ。
野々宮にその想念が生々しく蘇っていた。
堪えがたい不潔で、あくどい光景だった。
「はははは。どうも、退屈だな」と。
そして彼は振り返りもせずに出て行ったのだ。
なんてあくどい生活力のあふれた笑いであることか。
そして、ぐいと押して行く肩。
大きな足の運び。
彼の背に閉じられた扉の音。
共に生きることを許しがたい、獣のような生活力を生々しく押し付けられた思いがする。
その悪臭に顔を背けずにはいられないのだ。
殺しても飽き足らない、醜悪な動物力のかたまりだった。
退屈! 退屈とは。
ああ。
なんとまあ動物的な生活力のあふれた言葉であることよ。
退屈とは。
まさしく彼にふさわしい醜怪な言葉ではないか。
退屈でない事柄なら、どのような野獣の行為も平気なのだろう。
そしてなお、常に体臭が芬々(ふんぷん)と漂う、絶えざる退屈を振りまくのだ。
まるで、どす黒い生肉のような陰惨な臭気を放つ退屈を。
野々宮は絶望のために失いそうな憎悪にかられた。
共に生きることを欲しない切なさだった。
彼は卓一を殺したかった。
あの動物の血を見たい。
したたる血を。
――気を失ってしまいそうだ。
わかるのは頭の鈍痛のみだった。
広がりと、太さの果てが知れないような鈍痛のみだ。
野々宮は西堀へ出た。
堀沿いの柳の下に、屋台のおでん屋を見つけて入った。
まもなくそこを追い出されると、彼の背後では、屋台もすでに明かりを消そうとしていた。
彼は歩いた。
時々、彼は気がついた。
今いる場所に。
そして、そこまで歩いてきた意識の中断がわかるのだった。
もとより酔っているのではなかった。
いくらか酒も飲んだが、酔うほど飲んだ覚えもないし、酔った覚えもないのである。
わかるのはただ、想念の明滅と、その底に厚みを持った果ての知れない鈍痛だけだった。
とにかく、どこかに夜明かしの飲み屋があるに相違ないのだ。
野々宮は小さな路地へ入っていた。
軒並み、概ね軒灯は消え、両側から黒い影が迫っているが、その各々の家の構えは暗さのために外形が不確かなものが多いのだ。
やがて一軒の酒場らしい戸口を見出して、野々宮は軽く扉を押してみた。
扉が開くという予想を持っていなかったので、押した力は極めて弱いものだったのだ。
すると。
扉はしかし、開いたのである。
彼の押した方向へ、音もなく、すでに開いていたのだ。
待たれていたかのような、手応えのなさで。
内部の冷たい暗闇が、彼の顔に走りかかってくるようだった。
何者か、さらに飛びかかってくる気配もあったが、しばらく佇んでいるうちに、やがて気配も死んでしまった。
わかるものは静けさだけ。
ここはたしかに酒場らしい、と野々宮は思った。もうみんな寝てしまったのだろうか。
奥の方からは、小さな物音ひとつ聞こえてこない。
今に突然、パッと明かりがつくに違いない、と野々宮は自分自身に言い聞かせた。
部屋いっぱいに広がる、まばゆいばかりの白い光が。
その想像は、野々宮の心に、まるで子供のような遠い安らぎを与えてくれた。
そして、にぎやかなざわめきの中で、ふと我に返るのだろう。
そこには人がいて、音楽まで鳴り響いている。
まばゆい光に満ちた部屋の中で。
野々宮は、扉の近くにあった椅子に腰を下ろした。
ここは一体どこなのだろう。
何よりも、自分はこれまでどこで、何をしていたのだろうか。
たしかに酒を飲んだような記憶はある。
店を追い出されたような記憶も。
それはまるで一年前の古い出来事のように、ひどく遠いことのように感じられた。
まるで夢の中のようだ。
いや、もしかすると本当に夢なのかもしれない。
そう思うと、つい笑いがこみ上げてきそうになったが、笑いたくないという気持ちもどこからか流れ込んできていた。
部屋に張り詰めた冷たい暗闇の中にいると、苦痛も恐怖も消えてしまったようだ。
いや、この部屋の闇の中には、最初から苦痛も恐怖もなかったような気がする。
その考えが、自然と彼を落ち着かせてくれた。
ふと気づくと、街灯の淡い光が、カーテンの隙間を通り抜けて、かすかに室内へ流れ込んでいた。
街灯がどこにあるのかはわからない。
そして室内へ流れ込む光は、カーテンの色に染まり、緑色の筋となって輝いていた。
ちょうど野々宮のすぐ横に、鉢植えのかなり大きな木があった。
クリスマスツリーにするためのものだろう。
枝葉がふさふさと垂れ下がった、モミの木に違いない。
緑色の光は、その葉の一部を照らしていた。
それは、かすかで、とても柔らかな光だった。
安らぎを感じる。
なんという切なさだろうか。
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