初級翻訳・吹雪物語 第25話

吹雪物語

まるで「墓」と「光」という言葉が語りかけてくるようだ。
ここに眠る人のささやかな憩いと、安息が静かに宿っているように思える。
柔らかな光。
そして、この静けさ。
野々宮は、ふとある呟きを思い出した。
「憐れみたまえ」と。
そして野々宮は、実際に呟いてみた。
なんとふさわしい祈りだろうか。
このかすかな光のためにこそ用意されていた、唯一の切ない言葉のように思えた。
まるで母親の揺りかごに帰ったような気分だった。
心はすでに、遠い古い国へと帰っていった。
そして自然と、意識を失ってしまったのである。

扉が開いた。
誰かが入ってきたようだ。
軽い騒ぎが起きかけたようだったが、それはほんの一瞬のこと。
すべては何事もなく、すぐに過ぎ去ってしまったらしい。
一日の仕事を終えて、夜食を買いに出かけていたらしい女たちが数人、帰ってきたのだ。
二言三言のやり取りはあっただろう。
それでも何も変わることはなく、平穏だった。
野々宮は思った。
自分はもう、夜の街路を歩いているのだと。
何事もなかったかのように、一つのことが終わったらしい。
まるで夢の中の出来事が終わったかのように。
……彼は歩き続け、自分の宿にたどり着いた。

三

文子に男ができたのではないか、と左門は疑い始めていた。
ただの取り越し苦労であってほしいと願い続けてはいるが、心は自然と、願いたくない方を信じるようになってしまっている。
何を根拠にと言われても困るのだが、感じるすべてが同じ疑いを深めていくのが、何よりも堪え難かった。
文子が年末の買い物に出かけるというある日、左門も街の賑わいを見ようと一緒に出かけることにした。
これが最後に見る景色になるかもしれないという思いが、何事につけても自然と心に浮かぶのである。
百貨店で文子が買い物をしている間、左門は隣の売り場の陰で、煙草を吸いながら休んでいた。
そこへ、三人連れの高校生が、制服に下駄という格好で、文子の周りを狙って集まってきた。
「お嬢さん、お買い物ですか」
「その荷物、持ってあげましょうか」
「こっちは僕が持ちますよ」
「僕も何か一つ持たせてもらいたいな」
「おい番頭さん、これをお買い上げだそうですよ」
「わはははは」
もちろん彼らは、すぐそばに連れの左門がいることに気づいていなかった。やがて文子が上気し、うわずった表情をしながら左門のところへふらふらと急いで行くのを見ると、驚いて逃げていった。
左門は寂しい気持ちになった。
どんな人の前でも誇ることができた文子だったのに。
今はもう……そうして、このところの自分の憂いが、やはり取り越し苦労ではなかったという確信が強まっていく。
男たちの最も低俗で卑劣な感情に、つけ込まれる隙があるのだ。
まるで商売女のように。
あの断髪がそれだ。頬紅も、眉の描き方も。
何よりも、文子自身の心の持ちようが、男たちの卑しい感情につけ込まれる余地を作り上げてしまったのだ。
もう文子は二度と帰ってこない存在となって、どこかへ飛び去ってしまった。
左門は切なく、それを信じざるを得なかった。
――つけ込まれるのは仕方がないにしても、と左門は嘆かずにいられなかった。
せめて無礼な若者たちの横っ面をひっぱたくくらいの気概を持ってほしいものだ。
どうにでもなる玩具のような、その頼りなさが、情けなくてならない。そして左門は、あまりの情けなさに、純粋で若々しい人たちが抱くような苦笑いを浮かべてしまった。
「なんて不思議な家に来てしまったんだ」
他巳吉(たみきち)は、毎晩のように大声で怒鳴りながら、裏口からやってくる。
「歩きすぎたかと思ったが、まるで外国まで歩いてきたような気分だ。年寄りはいつも留守番で、娘はダンスにお出かけとはね」
響いてくる他巳吉の声を聞くたびに、左門は身を切り刻まれるような思いだった。せめて、このひそかな不安と嘆きを他巳吉にだけは打ち明けたいと願ったが、いざその顔を見ると、それほど難しいことはなかった。むしろ反抗心を抱き、あえて皮肉で返してやりたいという、ひねくれた気持ちさえ湧いてくるのだった。
「夕方になると、文子は何の迷いもなく化粧を始める。それを見ていると、私に若者の豊かな生活を想像させ、枯れ果てた私の物思いにも、少しだけ血を通わせてくれるような気がするのだよ。あなたも年頃の孫娘がいるから分かるだろうが、老人の衰えを防ぐためには、身辺に若者の世界があるというのは、どうやら悪いことではないらしい」
皮肉を言えるような余裕は、左門にはなかった。心では皮肉を望んでいたとしても、その言葉は彼の偽らざる素直な告白だった。左門は泣きたくなるほどだった。
「老人の心というのは無力だね。ただ『何も起きないでくれ』と願うばかりだ。いや、老人だけではないな。人の心というものは、諦めることに慣れすぎてしまったようだ。大寺老(だいじろう)、あなたはその平穏な一生を悔いることはないだろうか。私には、その悔いが絶えないのだ。そして、私は言わねばならないのだろうね。私は、欲していたものを常に恐れながら老いてしまった、と。人は常にそうでなければならないのだろうか。私は時々、自分が腹立たしくてならない」
大晦日の夜のことだった。老人たちの衰えきった世界に、初めて波乱が表面化した。大晦日には各地で様々な行事があるだろうが、この町では、神社の境内で焚き火が始まる程度のことだった。注連縄(しめなわ)や古札などを抱えた老若男女が神社の鳥居をくぐり、焚き火の中にそれらを投げ込んで帰っていく。ただそれだけの、華やかさとは縁遠い町だった。他巳吉は例年通り、町内の主な神社を一巡し、白山神社で最後を締めくくると、左門のもとへ立ち寄った。ちょうど卓一も居合わせていたが、文子はこの日も外出していた。一年の最後の日だというのに。
便所へ立った他巳吉が、突然中で喚き始めた。
「化け物の棲家に迷い込んでしまったぞ。逃げ出すのに一苦労だ。お茶もうかつに飲めたもんじゃない。ここの饅頭は馬の糞だ。年越しそばはミミズだね。ああ、汚い。ゲエ、ゲエ」
他巳吉は戻ってきたが、茶の間には入らず、廊下をのしのしと歩き始めた。そして、さらに大きな声で喚き立てる。
「カマキリ親父はいつも目をむいているが、このどんぐり眼は義眼だな。今日は一年の大晦日。明日は新しい年だ。どこの家のお嫁さんは、親父を置いて逢い引きだそうだ。親父は平気の平左衛門か。涼しい顔ですましているよ。膝小僧が給仕してくれて、年越しそばをモシャモシャ食べたね」
他巳吉はフッ、フッ、フッと笑いを殺した。襖(ふすま)のために姿は見えないが、巨体ゆえに廊下をきしませる足音が大きい。さらに一段と声を張り上げた。
「相手の男は、もぐりの医者だそうだ。有名な女たらしで、前科者だそうだ。後家というものはもともと助平なものだそうだ。男の口車に乗るのが相場だとさ。カマキリ親父は涼しい顔だとさ」
他巳吉は再び笑いを噛み殺した。しかし次の瞬間、突然彼は狂人のように叫び出した。破れ鐘のような声だった。
「畜生め! 出てこい! ずべた野郎! 貴様の根性を叩き直してやる。松の木へ逆さに吊るして、殴りつけてやるぞ!」
他巳吉は廊下を激しく踏み鳴らした。

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