「貴様の髪の毛も切り刻んでやる! 踊る足もへし折ってやる!」
それは何にせよ、行き場のない友愛が歪んだ形で表れた、抑えがたい怒りに違いなかった。他巳吉は襖を開けた。そして、その隙間からひょうきんな首だけを出して二人を見た。突然、彼は笑い出した。そして襖を完全に開け放すと、部屋の中央へ転がり込んだ。彼は腹を両手で押さえ、伸びたり縮んだり、転がったり、うつ伏せになったり仰向けになったりした。笑いは途切れ、また続いた。もはや悲鳴のようだった。しかし、笑いは呼吸の隙間を縫うようにして溢れ出てくるのだった。長い苦闘の末、最後に彼は死んだふりをして見せた。
こうして、一つの年が終わり、新年が明けた。世捨て人のような左門ではあったが、さすがに春の三が日は邸内も多少の賑わいを見せる。来客の一人に野々宮がいた。左門の頭を離れない言葉があった。他巳吉の喚き声である。
「どこの嫁が逢い引きにお出かけだとさ」
他巳吉は、確かにそうはっきりと言い放ったのだ。「相手の男は、もぐりの医者だそうだ。
名高い女たらしだそうだ」
と。
――かねてから左門の心にも、そうした類の不安の影はひそかにうごめいていた。
まさかそんなことは、と左門は自分に言い聞かせ、打ち消さずにはいられなかった。
他巳吉の口から出た言葉だからこそ、彼は一層、その言葉を否定したいという反発心を抱いていたのだ。
他巳吉という人は、人格者ではあるが――と左門は考えた。
苦労人であることは確かだが、幼い頃からの辛い経験のせいで、少しばかり心がひねくれてもいる。
右と言えば左と言いたがる、そんなわがままな性格の人だ。
それに、人をからかって困らせるのが大好物らしい。
まるで子供のような人でもあった。
だからこそ、あの荒っぽい言葉は、何か策略を練り上げた作り話に違いないと左門は思い込もうとした。
いや、そう思い込まずにはいられなかったのだ。
あのひどい言葉を、どうして信じることができようか。
余命いくばくもないこの老いぼれの、最後の一滴の血潮にかけても。
しかし、左門は他巳吉に、一度だけ確かめてみたいという気持ちも捨てきれずにいた。
その噂のどこまでが真実なのか、と。
だが、それができない。
どうしても、どうしてもできないのだった。
やはり、心の中に拭いきれない不安が居座っているからだ。
一度滑り落ちてしまったら、どこへ行き着くのか分からない。
そのあまりの巨大さに、実体すらつかみかねるような、そんな不安だった。
しかし、どうしても抑えきれない反発心もあった。
野々宮のやつれた姿を見ると、左門はひたすらに親しみだけを感じるのだった。
そこに、自分自身の影を見出しているのかもしれない。
「理想ばかり高くて実力が伴わない(眼高手低)というのは、あの人の一生の癌だね」と、左門は以前、卓一に語っていたことがあった。
「春が過ぎたら、静かな日、あなたとゆっくり語り合いたいものだ」左門は野々宮に言った。
春の賑やかな人々の輪の中で、野々宮だけが寂しげに打ちひしがれていた。
「平穏な日常が戻ってきたら、ぜひとも訪ねてほしいものだ。
なにせ老人の暇というものは、終わりのない砂の道を歩くようなものだから。
あなたの訪れを心から待ちわびているよ」
七草の行事もようやく過ぎ去った。
左門の正月気分も、すでに一段落していた。
そして文子は、久々に故郷の春を楽しもうと、その朝、実家へと出発した。
ひとりの午後を迎えると、左門はふと野々宮を訪ねてみようという気持ちになった。
一度野々宮のことを思うと、まるで百年来の知己に寄せるかのような親しみを、もう抑えることができなかった。
野々宮が今執筆している伝記のモデルは、二人とも生前、左門と親しかった人々であり、その出来栄えは彼にとっても非常に興味深いものでもあった。
理想ばかり高くて実力が伴わないこと。
それはまた、左門自身の人生にとっても一生の癌であり続けた。
老いさらばえたこの身がどうなろうと悔いはないが、左門は思わずにはいられなかった。
あの年若い友人である野々宮の幸せを、祈らずにはいられないのだ。
しかし、左門が野々宮に寄せるこの抑えがたい友情には、恐らくほかに理由もあったに違いない。
それは、他巳吉のあの叫び声だった。
諦めの境地に達したはずの左門だったが、他巳吉のあくどい言葉がもたらしたこの巨大な不安を支えきれるほど、彼は強くはなかった。
それに、他巳吉との友情も、どこかひびが入ったような頼りなさがあった。
親しすぎ、慣れ合いすぎたがゆえの弊害だろうか。
とにかく、心は自然と彼に逆らいたがっていた。
不安を分かち合って支え合うどころか、二人の友情はかえって不安を深め、苛立ちを募らせるばかりだったのだ。
だからこそ、新たな友を求めずにはいられなかったのだろう。
「わずか四、五日のことですが、文子を実家に帰したのでね」左門は野々宮に切り出した。
「私のような、諦めることばかりに慣れた老いぼれですら、身辺からひとつの気配が消えるだけで、力が抜けてしまったような気分になる。
これまで幾度となく大切なものを失うことに慣れてきたし、最近では自分という存在が消えることさえ受け入れようとしているのに、人の未練というものは、これほどしぶといものなのかね」
左門はついに心を決め、胸の奥にある一週間の不安を打ち明けた。
「うちの文子に男の噂があるそうなんだが」左門は静かに言った。
「もともと私の迂闊さが招いたことだ。
人の心は弱いものだね。特に女というものは。
過ちを犯すのが人間というものの自然な姿なのかもしれない。
私はその自然な姿をいたわってやりたいとも思うが、世間で生きていくためには、不自然なことでもあえてしなければならない時がある。
自然のままではいけないということもまた、この世の自然なのだから。
七十にもなって、周囲の笑いものになるような愚かな失態を演じている自分が情けない。
親の欲目というものもある。親がよく陥る弱点に気づかず、迂闊でいた私が何よりも悪いのだが、同時に、世間の体裁ばかりを取り繕うような風潮にも、腹を立てたくなる気持ちがあるのだ。
大寺老人の話によると、文子に男がいるという噂が立っているそうだが、あなたには何か心当たりはないかね。
大寺老人の話を聞く前から、同じような不安はあったのだが――しかし、私は文子を責めることはできない。
弱い心を持っている彼女を、むしろ守ってやりたいという思いが激しいのだ」
野々宮は、あれ以来、文子と踊ったことはほとんどなかった。
文子は知り合いの踊り子を頼って、金※舞踏場へ出かけているらしい。
たった一度のダンスで文子は野々宮を嫌うようになり、その反発心が野々宮の心に鋭く突き刺さってもいた。
そして、野々宮の中で、文子という人間への失望感――その平凡さを厭う思いを、より一層強めるのだった。
「あの女が男に求めるものといえば、結局は肉体的なつながりだけなのだろう。
ただそれだけの、能力の低い女にすぎないのだ」彼女には機転も利かなければ、感情に輝くような高尚さもなく、憧れを抱くような心もありませんでした。ましてや、憂いを含んだような愁いのある陰りさえもなかったのです。
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