初級翻訳・吹雪物語 第36話

吹雪物語

秋になると、卓一たちはネズミのように松林を駆け抜け、砂丘の頂上を越えて、海へと続くグミの茂みの中へ潜り込んだものだ。
荒れ果てた秋の海を茂みの中から覗きながら、グミの実を摘んで食べて、結局お腹を壊したりしたものだった。
山番に見つかって、グミの茂みの中を必死に逃げ回るあのスリルが楽しかった。
確かに卓一が少年だったころ、北風に吹き荒らされた砂が防砂林を飛び越え、街へと降り積もっていたことは否定できない思い出だ。
今の新潟高等学校があるあたりには、そのころ古い墓地があった。
この捨てられた墓地の墓石は、ほとんどが倒れたまま誰にも顧みられず荒れ果てていて、倒れた墓は砂に埋もれ、倒れずに残っている墓も、ようやく頭を砂の上に突き出しているような状態だった。
また、その続きの丘の上には、町の人々が「百軒長屋」と呼んでいた住宅が建ち並んでいたことがある。
けれど、北風があまりに激しいため、住む人がまったく現れなかった。
人が住まないうちに窓は北風で割れ、壁板は吹き飛び、屋根は崩れ、家の下半分は砂に埋まっていくありさまだった。
大正時代の半ばのことである。
その場所には、今は官舎がずらりと並んでいる。
そして松林に続く丘の上、昔は砂が降るだけで掘立小屋さえなかった砂地に、今では文化住宅が隙間なく建ち並んでいる。
寄居浜の砂丘は切り開かれ、道が舗装されたことで、今では車で海まで行けるようになった。
街に何尺もの雪が積もるような日でも、北風が直接吹き付ける海側の砂丘の斜面だけは、降ってくる雪さえも吹き飛ばされて、雪が積もることはなかったのである。この街に生まれ、この街で一生を終える人々のなかでも、おそらくごく少数の人しか知らない事実があるだろう。
海へと続く砂丘の斜面は、この街で一番長いスロープになっている。そこを滑り降りてやろうと、子供たちが砂丘の頂上へ登ってくるのだ。ところが、海側の斜面に出たとたん、吹き飛ばされてしまいそうなほどの強風にさらされることになる。
下を見下ろすと、そこには雪がまったくない。よほどがっかりした小さなスキーヤーたちでない限り、この事実を自分の目で見た人はほとんどいないに違いない。
街で風が止んでいる日でも、海を吹く風は激しいものだ。ましてや街中にも北風が唸りをあげて荒れ狂うような冬の日に、わざわざ海辺へ行こうとする者など、まずいるはずがないからだ。
そもそも雪国の人々は寒がりだ。こたつに丸くなってあたりながら、一冬をまるでひと眠りでもするかのように過ごしがちである。

卓一と由子を乗せた自動車が砂丘の頂上へ登りつめると、荒れ果てた海が突然目の前に広がった。
暗い空が海へと垂れ込み、そのせいで海がひどく小さく見えた。たとえようのないほど、どんよりと暗い海の色だ。浅瀬で巻き上がる荒波はもちろんのこと、海全体が白い無数の牙をむき出しにして、苦しげに喘いでいるようだった。
冬の海。誰しもがだいたい予想できる風景であり、由子も覚悟はしていた。しかし、あらゆる想像を吹き飛ばしてしまうほどの激しさこそが、冬の海の正体だった。
それぞれの色の暗さ。それぞれの動きの深さ。空も動き、海も動き、それゆえに暗さも一様にうねり、単調なはずの砂浜さえも、一つの大きな動きの一部だった。
すべてが、ひとつの巨大な生き物にほかならなかった。
新潟の海には、岩ひとつない。ただ海と、砂のうねりがあるばかりだ。晴れた夏の日には、海の向こうに佐渡が見え、粟島が見え、弥彦山まで見える。だが、冬の小さく暗い海には、揺れ動く水以外、何もなかった。カモメの影すら見当たらない。
海岸へ降りた自動車がたどたどしく旋回するあいだ、卓一も由子も窓に額を押しつけるようにして、小さな暗い水のうねりをただぼんやりと眺めていた。

「車を降りたら、寒しら?」
綿くずのような小さな雪が、横向きにまっしぐらに飛んでいた。その雪の粒は、彼らが海を眺めている車の窓に、射抜くような勢いで突き当たり、へばりついた。
「降りてみるわ」
由子は突然ドアを開けて外へ出た。
一歩外に出たとたん、身体ごとさらっていきそうな巨大な風が襲いかかった。着物も一瞬で吹き飛ばされ、髪の毛も一瞬で吹き飛ばされ、そのひとつひとつがまるで独立して走り去る生き物のようだった。海を見るために顔を上げる余裕すら、まったくなかった。
由子は一歩外に出ただけで、すぐに車の中へ戻ってきた。叫ぶひまも、呼吸をするひまもなかったのだ。
「戻りましょう」由子はそうつぶやいて、目を閉じた。
車が砂丘の頂上へ戻ると、由子は海を振り返らずにはいられなかった。惨めなまでに叩きのめされ、翻弄された自分たちの小ささが、花びらが舞うような不思議な楽しさとなって、胸の中で躍り始めていた。
せめて、こうして翻弄されたことを楽しむくらいしか、挨拶のしようもないではないか。
巨大な生き物――。自分もまた生きているということが、なんだか可笑しく感じられた。

卓一が会社へ戻ると、木村重吉が懐かしそうに近づいてきた。
「あの人が僕に何を話したか知っていますか」木村重吉は上機嫌な笑みを浮かべて卓一に言った。
「寒いですね。ええ。編集長とは子供のときのお友達だそうですね。ええ。再会の感想はいかがですか。ええ。あの人は、何を言っても『ええ』ばかりだ。お茶を飲みに行かれたのですか」
「海を見に」
木村重吉は急に真面目な顔つきになった。まるで揶揄されたことに怒るかのように。
「心中でもしてやろうかと思ったよ」卓一は苦笑を浮かべた。
「なんでもない女の人とは、死にやすいものだ。女房のある男に恋人ができるね。男は恋人と心中せずに、女房のほうと心中するのだ。そのほうが自然じゃないか。惚れた女と死ねるものか。海の奴、人間を考えさせないほど巨大な奴だ。ああいいう巨大な生気の前に立つと、人間の思想も生死も、一粒の砂と同じように見えてしまうね。間の抜けたほど気楽な気持ちになるものだ」

それから数日後のことだった。木村重吉が再び上機嫌な笑みを浮かべて、卓一の机へ近づいてきた。
「本当に海を見に行ってきたそうですね。僕は、からかわれているのかと思ったのですよ」木村重吉は机の端に両手を突き、卓一の顔をのぞき込むようにして、馴れ馴れしく笑いかけた。
「昨晩、街で偶然嘉村さんに会ったのです。一緒にお茶を飲んだのですよ。今度は、『ええ、ええ』ではなかったのです。編集長はあの人の手ほどきでダンスを習われたそうですね。なぜ踊らないのですか。あの人の言葉によると、野々宮さんは踊らないほうが大人に見えるが、編集長は踊るほうが大人に見えるのに、と言っているのです。感想はいかがですか」「女というやつは、時々ひどいことを言うものだ」
 最後にそうつぶやきをもらすと、卓一の返事も聞かずに背を向けて立ち去った。彼はひどく満足げな様子だった。

 また数日後のことだった。
 再び木村重吉が卓一の机の端に両手を突き、上機嫌に話しかけてきた。
「編集長。今晩、お暇ですか」
「なぜだ」
「映画を見に行きませんか」
 卓一は「行ってもいい」と答えた。
 卓一はめったに映画も見なかったが、アメリカの乱痴気映画に見られる、若々しくも野蛮な精神は嫌いではなかった。

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