初級翻訳・土神と狐 第3話

土神と狐

土神はそれを見て、また大きな声で笑いました。その声はまた青空の方まで届き、途中からバサリと樺の木の方へ落ちました。樺の木はまたハッとして葉の色を変え、見えないくらい細かく震えました。
土神は自分の祠のまわりをウロウロと何度も歩き回ってから、やっと気が済んだのか、スッと姿を消すようにして祠の中へと入っていきました。

(四)

八月のある、霧の深い晩のことでした。
土神は何とも言えず寂しく、それにイライラしてどうしようもないので、ふらっと自分の祠を出ました。足はいつの間にか、あの樺の木の方へ向かっていたのです。
本当に、土神は樺の木のことを考えると、なぜか胸がドキッとするのでした。そして、ひどく切ない気持ちになるのです。この頃は心持ちがだいぶ変化して、穏やかになっていたはずでした。ですから、なるべく狐のことや樺の木のことなど考えたくないと思っていたのに、どうしても考えずにはいられないのです。

「俺はいやしくも神じゃないか。一本の樺の木が、俺に何の価値があるというんだ」
と、毎日毎日、土神は繰り返して自分に言い聞かせました。それでも、どうしても悲しくて仕方ありませんでした。とりわけ、ほんの少しでもあの狐のことを思い出すと、まるで体が焼けるくらい辛かったのです。土神はいろいろと深く考え込みながら、だんだんと樺の木の近くへやってきました。
そのうちに、自分は本当は樺の木に会いに行こうとしていたのだと、はっきりと気がつきました。
すると急に、心がワクワクと躍り出しました。
ずいぶんと長い間会っていなかったのだから、もしかすると樺の木は自分を待っていてくれるのかもしれない。どうやらそのようだ。もしそうなら、なんと気の毒なことをしてしまったのだろう、という思いが土神の中で強くなりました。
土神は草をドシドシと踏みしめ、胸を躍らせながら大またで歩いていきました。
ところが、その力強い足取りもいつしかよろよろと崩れ、土神はまるで頭から青い悲しみのシャワーを浴びたかのように、その場に立ち尽くさなければなりませんでした。
それは、狐が来ていたからです。
すっかり夜になっていましたが、ぼんやりとした月明かりに浮かぶ霧の向こうから、狐の声が聞こえてくるのです。
「ええ、もちろんそうなんですよ。
ただ機械的に、左右対称の法則にかなっているからといって、それが美しいとは言えないんです。
それは死んだ美しさです」
「まったくその通りですわ」静かな樺の木の声がしました。
「本当の美しさは、そんな固定されて化石になった模型のようなものじゃありません。
対称の法則にかなっていると言っても、実は『対称の精神』を持っているというくらいのことが望ましいのです」
「本当にそう思いますわ」樺の木のやさしい声がまた聞こえました。
土神は今度は、まるでベロベロに赤い桃色の炎で体中を焼かれているような気持ちになりました。
息がせかせかとして、本当にたまらなくなりました。
何がそんなにお前を苦しめるのか。たかだか樺の木と狐の、野原での短い会話ではないか。そんなものに心を乱されて、それでもお前は神と言えるのか。土神は自分で自分を責めました。
狐がまた言いました。
「ですから、どの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんですよ」
「美学の本をたくさんお持ちなのですか?」樺の木がたずねました。
「ええ、たくさんというほどではありませんが、まあ日本語と英語とドイツ語のものなら大抵ありますね。
イタリア語のものは新しいのですが、まだ届いていないんです」
「あなたのお書斎、まあどんなに立派でしょうね」
「いいえ、もう散らかり放題ですよ。それに研究室も兼ねていますからね。あっちの隅には顕微鏡、こっちにはロンドン・タイムス、大理石のシーザーの彫像が転がっていたりと、もうめちゃくちゃです」
「まあ、立派ですわねえ、本当に立派だわ」
ふんと狐の、謙遜のような自慢のような息の音がして、しばらくしーんとなりました。
土神はもう、居ても立ってもいられませんでした。
狐の言っていることを聞くと、明らかに狐の方が自分よりも偉いのでした。
「自分は神ではないのか」と今まで自分に言い聞かせていたことが、もうできなくなってしまったのです。
ああ、つらい、つらい。もう飛び出していって、狐を一裂きにしてやろうか。いや、そんなことは夢にだって考えるべきことじゃない。だけれども、その『自分』というものは何だ? 結局、狐にも劣る存在ではないか。一体、自分はどうすればいいのだ。土神は胸をかきむしるようにして苦しみました。
「いつかの望遠鏡は、まだ届かないのですか?」樺の木がまた言いました。
「ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ届かないんです。なかなか来ないですね。欧州航路は大分混乱していますからね。届いたらすぐに持ってきてお見せしますよ。土星の環なんか、それはもう美しいんですから」
土神は急に両手で耳を押さえ、一目散に北の方へ走りました。
黙っていたら自分が何をしでかすか分からないのが、恐ろしくなったのです。
本当に一目散に走っていきました。
息が続かなくなってバタリと倒れたところは、三つ森山の麓でした。
土神は頭の毛をかきむしりながら、草の上を転げ回りました。
それから大声で泣きました。
その声は、季節外れの雷のように空へ響き、野原中に聞こえ渡りました。
土神は泣いて泣いて疲れ果て、明け方にぼんやりと自分の祠へ戻りました。

(五)

そのうちに、とうとう秋になりました。
樺の木はまだ真っ青でしたが、その辺りのイノコヅチの草はもうすっかり黄金色の穂を出して風に光り、ところどころスズランの実も赤く熟しました。
ある透き通るような黄金色の秋の日、土神はとても上機嫌でした。
今年の夏からのいろいろなつらい思いが、何だかぼうっと立派なもやのようなものに変わり、頭の上に輪になってかかったように思えました。
そして、もうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ消えてしまい、「樺の木なども、狐と話したいなら話せばいい。両方がうれしくて話すのなら、それは本当によいことなんだ」と、今日はそのことを樺の木に言ってやろうと思いながら、土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。
樺の木は遠くからそれを見ていました。
そしてやっぱり心配そうにブルブルと震えて待っていました。
土神は進んで行って、気軽に挨拶しました。
「樺の木さん」「おはよう。実にいい天気だな」

「おはようございます。いいお天気でございます」

「天道様というのはありがたいものだ。春は赤く、夏は白く、秋は黄色くなる。秋が黄色くなると葡萄は紫色になる。実にありがたいものだ」

「全くでございます」

「わしはな、今日は大変に気分がいいんだ。今年の夏から実にいろいろとつらい目にあったのだが、ようやく今朝から急に心持ちが軽くなったのだよ」

樺の木は返事をしようとしましたが、なぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて、うまく言葉が出ませんでした。

「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。もしミミズが死ななければならないのなら、それだってわしが代わってやってもいいのだ」

土神は遠くの青い空を見上げて言いました。その瞳は黒く、とても立派でした。

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