初級翻訳・変な衛星 第5話

変な衛星

しかし、直前になって父がハーベイに用事を言いつけて、単独飛行を禁止したのよ」
 グラントはハーベイに強い反感を持ちました。
「それで?」
「だから、1人で飛んだの」と、彼女は澄まして言いました。
「それで落ちたのかい?」
 リーが反論します。
「皆と同じくらいうまく飛べるわ。別な航路を取ったら、突然前方に山が……」
「馬鹿丘(ばかおか)だ。俺の補給機はこれを避けるために800キロも迂回する。この丘は高くないが、イオの大気からにょきっと突き出ているんだ。イオの大気は濃いけれど、高さは低いからね」
「知ってるわ。真上は飛べないと知ってたけど、飛び越せると思ったの。全速力で飛行機を上昇させたわ。密閉飛行機だったし、イオの重力は弱いから。しかも何回も成功するのを見ているの。特殊なロケット駆動よ。空気が無くなって翼が役立たなくなっても、ジェットが飛行機を保持してくれるの」
「何というバカな曲芸だ。確かに飛び越せるけど、向こう側の空気に突っ込んだら、機首を引き上げなければならない。突っ込み速度が速いから、あっという間に落ちるんだよ」
 リーが悲しげに言いました。
「知ってたわ。機首を目一杯引いたけど、完璧じゃなくて、棘ヤシ(とげやし)のど真ん中に突っ込んだの。なぎ倒したから、棘ヤシに襲われないうちに何とか脱出できたけど、二度と飛行機には戻れないわ。この2日間のことしか思い出せない……怖かった」
「そうだったろう」とグラントがやさしく言いました。
「飲み食いしなければ白熱病にかからないと知っていたわ。食べないのはいいけど、飲まないのは……そうねえ、とうとう我慢できずに小川の水を飲んだの。何が起ころうと構わない、一瞬でも喉の渇きが抑えられるならって。そしたらそのあと、すっかり混乱して朦朧(もうろう)としたのよ」
「強心草を噛めばよかったのに」
「そんなの知らないわ。形すらわからないもの。それに父が来るのを待っていたの。今頃探しているはずよ」
 グラントが皮肉っぽく言いました。
「たぶんそうだろうよ。きみが落ちたのは表面積4千万平方キロの小さなイオだ。おそらく、どこにでも不時着の可能性がある。北極から南極への飛行にどんな最短ルートもない。天体のどこでも通れるからね」
 リーの灰色の瞳孔が開きました。
「でも、私は……」
「さらにだ、探索隊がここを探すのはおそらく最後になるぞ。馬鹿丘を越えようとするなんて、べらぼう以外誰も考えないだろう。まったく。だからリー・ニーランさんよ、来月俺の補給機が来るまで、見捨てられたようなもんだ」
「でも父は気が狂いそうでしょう。私が死んだと思っているわ」
「今頃きっとそうだろうな」
「でも私たちは……」
 リーが突然黙り、1部屋しかない掘立小屋を眺めました。一瞬ためらい、観念してため息をつき、微笑んでそっと言いました。
「そうね、最悪かもね。グラント、わたし働いてみるわ」
「いいね。リー、気分はどうだい?」
「まったく正常よ。すぐ働くわ」
 彼女はぼろぼろの毛布を放り出し、起き上がって床に足をつけました。
「食事を作りましょう。あっちゃあ、私のドレスが……」
 リーは毛布をひっつかんで、再び体に巻きました。グラントはニヤニヤしながら言いました。
「君が気を失っている間に、あいつらが入り込んだんだ。俺の予備の服まで切り刻みやがって」
「台無しね」
 リーは泣きそうな顔をしました。
「針と糸ならあるわ。食卓の引き出しにあったから、盗られずに済んだの」
「わかった。自分の水着くらい、君なら作れるだろう。俺の服を使って、なんとか仕立ててみてくれ」
 リーは服を切り、貼り、繕いながら、とうとうグラントの大きな服を、自分用の見苦しくない程度のサイズに仕上げました。
シャツとズボン姿のリーはとても愛らしかったのですが、突然顔を青白くしたので、グラントはあわてふためきました。
「白熱病」のぶり返しです。この病気は症状が激しかったり長引いたりすると、二段階で発作が襲ってくるのです。
グラントは深刻な顔つきで、最後に残った四錠の気付け薬のうち、二錠を手に取ってコップに入れました。
「これを飲んでくれ。強心草をどこかで手に入れてこなくちゃならない。補給機は先週行ってしまったばかりだ。それ以来、べらぼうたちはへまばかりしている。雑草とか、くだらないものばかり持ってきやがるんだ」
 リーは薬の苦さに唇をすぼめ、目を閉じ、一時のめまいと吐き気に耐えました。
「強心草はどこで手に入るの?」
 グラントは当惑して首を振りました。窓の外をちらりと眺めると、巨大な木星がどっしりと居座り、縞模様が白くなったり茶色になったりしています。大赤斑が西の端でふつふつと沸き立っていました。その真上近くには、エウロパの小さな円盤がきらきらと輝いています。
グラントは突然顔をしかめて時計を確認し、それから戸棚の内側に貼ってある暦を見ました。
「あと十五分でエウロパの光が差し込む。それから二十五分間は真っ暗になる。半月ごとに来る最初の闇夜だ。心配だな……」
 彼はリーの顔をしげしげと眺めました。
強心草のありかは知っています。しかし、密林をあえて突っ切る者などいません。なにしろ密林には棘ヤシや矢ツル、歯噛みと呼ばれる地獄虫などが潜んでおり、べらぼうやスリネズミを除けば、そこへ行くのは自殺行為に等しいのです。
それでも、どこに強心草があるかは知っています。ただ、この稀な真っ暗闇では、広場ですら命がけです。スリネズミどころの話ではありません。暗黒界に住む生物たちが、この時とばかりに密林から這い出してくることを、グラントはよく知っていました。普段は永遠の闇の底に留まっている、歯噛みや弾頭ガエル、それに人間がまだ見たこともないような、ぬめぬめした未知の有毒生物までもが這い出してくるのです。そんな恐ろしい話をヘラポリスで聞いたことがありました。
それに……。
それでも、グラントは強心草を手に入れなければなりません。ありかは分かっています。べらぼうでさえ近寄らないような場所ですが、なんとスリネズミたちの村の庭園や農場には、強心草が植えられているのです。
グラントは迫りくる夕暮れの中で明かりをつけると、リー・ニーランに告げました。
「ちょっと外へ行ってくる。もし白熱病がぶり返したら、最後の二錠を飲むんだ。飲めばそれ以上悪くはならない。スリネズミどもが体温計を持ち去ってしまったが、めまいがしたら飲むんだぞ」
「グラント、どこへ行くの?」
「すぐ戻ってくるよ」
 彼は扉を閉めながら、大声で返事をしました。
薄青いエウロパの光に照らされて、紫色のべらぼうが一匹、ヒィヒィと長笑いしながらヒョコヒョコと動き回っていました。
グラントはべらぼうを追っ払うと、隣のスリネズミ村へ抜き足差し足で向かいました。この村は歴史が古く、短期間でこれほど広い土地を耕すことは不可能です。彼は慎重に流血草の間を這っていきましたが、この隠密行動が極めて無謀であることは理解していました。まるで三十フィートもの大巨人が、人間の町にこっそり近づくようなものです。真っ暗闇の中でも、すぐに見つかってしまうような行動でした。
やがてスリネズミ村の広場の端に到達しました。

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