自分の運命が一体どんなものかと思うとね
レルリング 失礼だが――きみのその運命って?
グレイゲルス (去ろうとしながら)テーブルの十三番目さ
レルリング ふん、くだらないね
ヘンリック・イブセン『野鴨(やまが)』
明治四十五年――大正元年
心 ――一月二十五日
(大変な困難に出会ったとき、私の胸は踊る……
かなしいかな、私の心は
喜びを閉じ込める仏の火
燃えて開くことのない灰の像、胸の鍵――
鎖は長く苦しみを紡ぎ、薄暗がりに垂れ下がる鎖
目に見えない精霊の怪しさに
叫ぶのは、苦しみの日の陰の鳥……)
(たえて喜びに胸が開くことはなく――
けれども感謝します、あなたがポオの本を私に手に入れさせ、喜んでくださったことを!
日の陰の鳥とは『大鴉(おおがらす)』ですよ!
ゴッホには、底まで静かに考える魂がある!
ポオには、底まで沈み込む悪魔がある!
ああ、誰かいないでしょうか、底の底まで憂鬱に胸を開くその兄弟よ――
叫ばず、嘆かず、ただ落ちていく兄弟よ!)
ポオの短編集(Tales)を贈ってくれたS――へ
音楽師 ――一月二十五日
林は影をつくるほど枝をしげらせ、葉は息づき――
小鳥は太陽の下に自分の影法師を走らせる
アリはその明暗のなかで、草のにおいに白い妄想を描きながら
スズメの卵を、かたく光るお城だと、まどろみながら歩いていく
うつつの中で絹のように鋭い夢を追いかけ回して
世界は暗闇だと――そして光なのだと、指は鍵盤を走る……
幻覚の月夜 ――一月二十五日
ここに輝く月の世界
青い木陰に物憂げな光
過ぎ去った日々にただひとつ叫ぶのは、風の林の枝
死はただひとつ
沈黙の――
月はひろびろと青い猫
夜は叫ぶ、風の林よ
幽霊 ――二月八日
からっぽの心に
青白い口火が忍びやかに燃え
雪明かりの中へと吸い込まれるように
臆病なオオカミは歩いていく
果てしない沼は氷に暗く陰り
脈うつ影法師は
永遠の嘆きをさまよい歩く
やがて口火も消えるとき
果てしない沼は、幽霊のひつぎの堂
氷の寺院――
底なしの水におぼれ沈む
FANTASIA(ファンタジア) ――二月
船の腹に――
下駄(げた)の歯が鳴る古い橋を
今はうつつに、波を枕にして――
単調に盲人は思う
薄い皮の銀の時計のチクタクという音と
船底の水をかなしみ
水底の魚のいのちは、食欲の
魂を求めている――
墓標 ――二月
浅い地虫のなきがらに
サクランボが熟れました
味気ない世の中に葬式の拍子木(ひょうしぎ)を叩く
酔っぱらった女房たちが拍子木を叩く
淫らな心の赤い真珠――キスの音
おれは死を恋い慕い
きゃっきゃと月夜ガラスの歯が痛む、一夜明けた醒めた心
葉陰の水に酔いが醒めて
一瞬一瞬の涙を売り飛ばす
空耳に聞こえる拍子木や、キスの音を
昼間の夢に聞き流して
おなかすかせた赤ん坊の泣き声を
思い出しては耳を澄ます――
足音、足音
洪水前の夜の REVERIE(空想) ――六月十三日
※
警鐘が陰気に響いてくる
永遠の夜の気配は、その合間にしんとした闇をたどり
軒下の寝鳥は、くくくと悲しそうに空気をふるわせて鳴く
河口、街角、工場の屋根などが、さびしい眠気の中に渦巻いて
私はいつからか眠り込み、今またふと目が覚めた
ろうそくが、遠い銀色の過去をちらちらさせながら燃えている
しっとりとなじんだ悲しみが、私の影法師を深く迷わせていく
ひそやかな葉擦れの音が空中に消えると
そのあとしんとして、雨の気配が窓からあふれ動き出す
嵐はすべての思い出を残して、はるか昔の昔に死んでしまったらしい
雨どいからは、ぽとりぽとりと途切れ途切れに落ちる水音
あれはいつまでも止むことのない孤独の響きだ
天窓からはしめやかに、空気にまじる雨の気配の薄明かり
あれは濡れた瞳を投げかける底なしの鏡だ
白い敷物は、半ば眠った心の奥にまでひろがり
青白くなった鏡は悲しみの部屋を見つめながら
この一晩の魂を守っているらしい
ああ、眠っている間もろうそくの炎をちらちらさせておくれ
ひそやかな葉擦れの音に、現実離れした私の思いは深い淵を泣きめぐる
ああ、眠っている間も炎をちらちらと鏡へ映してくれ
ひそやかな葉擦れの音に消え入るような思いをして、私の夢は青白い目を沈めていく
※
嵐は世界を、静かな涙と思い出にした
私の眠りの底には
あふれる川が流れていく
私の魂は冷たく浸されて
水音のなかで風は泣き
その魂を開いてくれと
葉擦れの音が空中でそよぐ
私にはあの葉擦れのひそひそ声はつかまえられない
胸へ落ちてくる暗闇の気配には果てがない
水に浸されて身震いするこずえの茂み
すすり泣きながら消えていく風には果てがない
※
私の思い出は、いつの間にか白いえしき(エサ用の魚)を沈めている
目の見えない中を手探りで、夢と現実の間を歩いていく
雨脚が消えかけながらも、どこかの木から私の肌を冷やしているとき、ふと赤いサンゴの人魚がまっ青なお腹を水に潜らせる
鏡はまたも永遠の暗闇となり
年老いた思い出のため息をつく
そしてろうそくの炎がちらちらする
あれはきっと、ものを言わない何千年も前の魚だろう
年老いた者の後悔や執念を、悲しみの箱で胸いっぱいにふさがせ
泣いているような笑っているような死に顔を
夜の長い眠れぬ夜に、ちらちらと鏡へ映すのだ
霧雨の空洞に響きなき鏡
その鏡は三本の格子をにじませて、ぼんやりと天井で涙ぐむ
まどろむ部屋の中では、ろうそくがちらちらと
遠い水音や葉擦れの寂しさや、その空中に消えていく何千年の沈黙のなかに
銀色の影を薄く壁にそよがせている
どこかでは固いパンをかじるネズミが、なめらかに光る絹のカーテンに隠れてすすり泣いているだろう
ある温室では、つりガネソウやアオイやシュロが頭を振っているだろう
すべての時間は青ざめた歴史を編みながら、雨の中に押し流されていくだろう
止まってしまった時計の振り子は
永遠の底へと沈んでいき
私の命は、まるで樽(たる)のような冷たい空洞を流れていく
発車前 ――六月二十七日
低い空はぼんやりと街の灯りを映して
薄月夜の中に小雨が降り出した
夜行列車の出発を知らせる鈴が鳴り渡り
一斉に動き始める群衆の呼び声
あぁ、私はどこへ行くのだろう?
ぞろぞろと改札口を出ていく群衆
かすかな目まいからふと目が覚めて
私はベンチから立ち上がった
あぁ、私はどこへ行くのだろう?
ただ一人、打ちしおれて歩くプラットフォーム
閉じ込められた嘆きはいつまでもほどけず
ただ一人、打ちしおれて歩くプラットフォーム
人ごみにときめかない処女の胸
その胸は、病み衰えた私の胸にある
その悲しさは、時を刻む振り子のように
どうしようもなく力なく時を刻む振り子のように
思い出すたびに鐘を鳴らす
その思い出は、病み衰えた私の胸にある
あぁ、あなたは今どこにいるの?
うすむらさき色にため息をつく白熱灯
あなたの微笑んだ顔はどこにあるのだろう
人の影が入り交じる、青く冷たいプラットフォーム
たよりない人生に
ため息はなくならず
この世にいない人に向かって
唇がふるえる
さびしくもただ一人、どこへ行くのだろう?
薄月夜に小雨が降り出して
ほの明るい夜の空
さびしくもただ一人、どこへ行くのだろう?
一生 ――六月三十日
一という盲目の男と、二という盲目の女、悲しい命はその間から生まれた
四番目の扉を開いて
五番目の椅子に座った
六番目の灯明に火をともし
七番目の女の死骸をむち打った
そして八番目の打ち下ろしに、がっくりと力が抜けて
神様へ悲しい助けを求める手をあげた
身体はふわっと浮き上がるように清く軽くなり
真っ黒な金襴(きんらん)のとばりが九番目の秘密を垂れ下げた
夢に照らされているらしい月夜は、その中で薄青くけむっている
星はたよりなげに天で光っている
十番目のため息をつくと
古めかしい記憶がしずかに行っていった
十番目の火をともすと
月光はぼんやりとした火の影をゆらめかせた
十二番目の大理石像の背後には
私とうり二つの老人がうつぶせに倒れている
まっ白にしおれたバラは
うろ覚えの記憶の匂いをただよわせている
十三番目の空中には
一つのひつぎが星雲のように浮かんでいる
悲しい一生の悔いや悲しみや思い出は
そこに隠れて歯ぎしりしている
つかみどころのない鎖になげきながら
私は十四番目の助けを求める手をあげた
智慧の実を食べてより ――七月二十四日
クリの木の下を歩けば
深い落ち葉の中に
きみの吐息たち
私の吐息たち
どこで鳴くともしれない山バトの声は
こずえにただ一つ残る黒い葉のようにふるえている
もの寂しく遠ぼえする果樹園の番犬
突然鋭く発射する連発銃の反響
遠い山並みからは雲一つ動かず
遠いあさぎ色の麦畑のそよぎまでも
日は悲しげにしずかに照らしている
このとき、こらえきれないようにきみの暗い影は
空飛ぶカラスのように私の胸へと落ちてきた
手錠のように、タガ(樽の輪)のように
重く息苦しく私の胸を抱きしめた
あぁ、またしても私たちは悔やむのか
あの遠ぼえをする犬のように
罪と自分を責めることに吠えるのか
うら枯れた時間の果樹園に
しらじらしくもふるえる白い日の光
その薄寒い木立の奥に
犬は悲しげに吠えている
鍛冶屋のぽかんさん ――七月
ナシの花がまっ白に咲いたのに
今日もまた降る、雪まじりの雨
にごった水は早口に鍛冶屋のとよへ飛び込み
丸裸のヤナギは手放しで青い若葉を濡らしている
ここの息子はぽかんさん
とんてんかんと泣く相づちに
イチゴの初なりが食べたいと
金床台(かなとくだい)を叩くのだ
手をあつあつとほてらせて叩くのだ
あぁ、夢なら覚めておくれ
ぽかんさん
この世の中に多いものは
大事な跡取り息子の、やもめ暮らし
時計の針の先のように
気が狂いやすい生娘(きむすめ)暮らし
この年月の寒さ暑さの往来に
私の胸はしぼんだ花のシワばかり
私の胸はまとまりのない、季節外れの食い意気ばかり
扇を持つみなしごの娘 ――七月
扇のなかで、みなしごは
白い虚ろな目を閉じる
病気あがりの頭のぼんやりの中に
まぶしく照らす赤い夕日
風にふらふら動くヒナゲシの花
どこか心当たりある両親が心のどこかにいるように
あちこちにきらきらと清水が湧く
あぁ、パウルのように厳しく、ペテロのように優しい院長さん
私がここへ初めて来た日には
あのおひさま目掛けて飛んでいく鳥みたいでした
そのくせ夜になるとうなされたり
泣き出したり
知らない外国の夢を見て
暗い廊下におびえていたり……
すべての友達に送る手紙 ――十一月
目覚めとは、それ自体ひとつの誕生だ
ひとつの新しい魂の生活だ
私はあまり多くない、だけど親しみの深かった友達にこう言いたい
私は今あなた方や、また君たちのことを思うと、限りなく深い借金の泥沼にはまっていくばかりだ
そして今頃になってそんなことを言い出すなんて
私のしたことはあらゆる冒瀆(ぼうとく)だ
人の心を冒瀆することだ
あぁ、私はあらゆる清く気高い土地をこうして今まで無駄に汚してきた
今こそ自分の自身の魂から物を言おう
私は一時期、乞食(こじき)であった
いかさま師であった
泥棒であった
そして苦しく青ざめて気難しく
つむじ曲がりの幽霊であった
それにだまされたのが悔しかったら
みんなで力いっぱい憎んでくれ給え
私は人をだました覚えはないが
自分がまだ生まれていないのに
生まれたと勘違いした罪がある
そこで私は冒瀆した
人の心を冒瀆した
私はこの借金をいつ返せるだろうか
人に犯したこの罪は
一生ぬぐえないだろう
私には悲痛で深刻な魂が
今日を目覚めさせている
よりどころのない、だけど確かな一歩が踏み出されている
今までの抜け殻を蹴飛ばして
心から出る産声をあげる時なのだ
つむじ曲がりの幽霊は顔を変えて
赤く灼熱(しゃくねつ)した目を燃やしながら命令している
私こそ人生に貸しがあるのだ
お母さんのおなかの影でうごめいている
私こそ本当の恐ろしい債鬼(さいき・借金取りの悪鬼)だ
人生の奥にその貸しが隠してある
放りっぱなしで貸しっぱなしの
今まで知らなかった手強い貸しがある
まず私は森林に火を放って
ひと固まりの野獣を追い出そう
苦しい悪魔を自分から振り落とし
自分から肉体にねじり込ませる
深いすすり泣きの声を聞こう
これこそ激しい命だ
これ以上の真実のライフ(人生)が私にあるか
これこそ抑えられない魂の誕生だ
もはや冒瀆ではない
悲痛で不安な灯火(ともしび)はやみなく明滅する
とりどりに美しく宝石はときめき
さまざまな寂しい涙を薄暗がりでときあかす
私の心はいつもただひとつで
不思議な死に際のすすり泣きに耳をすませる
私の心はいつもただひとつで
お皿の油の火はやみなく明滅する
これこそ私のあげる声だ
せき上げる産声だ
魂は目覚めれば目覚めるほど悲痛になり
ある宣告が耳に届く
私は恐ろしい債鬼だ
しどろもどろの影がまわりの壁に映る
足取りを乱して響きのない影が街中を踏み回す
薄白い炎はその間をやみなく油皿の中からゆらめいて
死に際のすすり泣きに耳を澄ます
あぁ、私は恐ろしい債鬼だ
発生 ――十一月
女よ、汝の罪は許されたり『マタイ伝』
僕は違う空気を吸う
違う力を感じる
僕自身はもう草だ
新しい発生だ
突き当たり、突き当たり
そして突き破り
突き破り
僕らの行き先の魂をつかみたい
とてつもない世界の果てに
真実の産声をあげて
底力のある目玉をでんぐりかえしたい
遠い故郷 ――十一月
時計はまたも黒い点線を
つづけていく
私の夢はあてもなく
だまって空回しをして
その長い低い街をうろつき歩く
商店の屋根の棟の間からは
海色の冷たい空が
一筋になってのぞいている
並木はいつの間にか
葉を落としつくして
くろぐろと寂しい枝を張りめぐらせている
私は心の隅から隅へため息をついた
そして日のありかも知れない冬の白い空から
遠い遠い空気を吸った
全身にしみる遠い遠い空気を吸った
冬の日暮れ ――十一月
吹きわたる風はとどまらず
黒いたそがれの町外れに
ガス灯はぽっと灯り出す
乾いた郊外の芝生に霧は流れはじめ
とある一軒家の二階からは
ぽろんぽろんとピアノの音が踊り出す
道にしみる夕暮れの寒さよ
身にしみるピアノの音色よ
私はそろそろ黒い林の多い
冬の旅支度を思い始めた
PROMENADE(散歩) ――十一月二十五日
私は今、波をおさえている
その波の底には薄青い灯影の町が沈んでいる
私は今ひとり、たどる
柳の木の下道を
でこぼこ柔らかいれんが道は
私の胸が踊るリズムのほどに
さらさらと心の隅から隅へ消えていく。
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