初級翻訳・幸福のはさみ 第2話

小川 未明

彼は先刻、寺の前で見た女の人が、どうしてもお母さんにちがいないような気がして、考えにふけっていたやさきでありましたから、このとき、彼はあったままを父親に話したのであります。そして、その女の人がおまじないに髪の毛をはさみで切って徳利の中に入れたこともすっかり話したのでありました。

その話を聞くと、父親は、いままでの酔いがすっかりさめてしまったように、まじめな顔つきになりました。
「どれ、俺がいってみてこよう。おまえは、家に留守をしているのだよ」といって、父親は急いで町の方へとゆきました。

父親は、星晴れをした空の下の、暗い道を歩いてゆきました。それは、正吉の通ったと同じ道でありました。落ち葉の空を飛ぶ音が聞こえます。木の枝の風に吹かれて鳴る音が聞こえています。このとき、父親ははじめて、こんなさびしい道を子供を使いにやったことをかわいそうに思って後悔しました。

そのとき、あちらに、暗い提灯の火が見えたのであります。それは、ちょうど寺の門前であって、まだ露店が出ているのでした。こんなさびしい、人通りのない晩に、いまごろまで露店を出しているなんて不思議なことだと、父親は思いました。
「あすこに、その死んだ妻に似た女がすわっているのか」と、父親は胸の中でいいながら近づいてみました。

すると、それは、いつのまに人が変わったものか、女の人でなくて、白髪のおじいさんが、じっとさびしい往来を見つめてすわっていました。父親は、そのおじいさんの顔を見ると、びっくりしました。ずっと前に、この世から亡くなられた自分のお父さんに、その面ざしが似ているからでありました。

おじいさんは、黙って下を向いていました。正吉の父親は、その前に立って、はさみを見ながら、いろいろのことを思い出していました。
「おじいさん、このはさみをくださいまし」と、父親はいいました。

すると、黙って下を向いていたおじいさんは顔を上げました。
「こう寒くなっては、どこの家でも冬着の仕度をせにゃならん。このはさみを使った人は、みんなにしあわせがくるから、楽しみにしていなさい」と、おじいさんはいいました。正吉の父親は、自分は男手ひとつで着物を縫うこともできないけれど、誰かにお願いして、せめて子供にだけでも暖かい着物を着せてやりたいと思いました。
父親は、ずっと以前にこの世を去り、忘れかけていた自分の父親の顔を、そのおじいさんの姿を見てはっきりと思い出しました。
「おじいさんも、風邪をひかないように大事になさってください」
そう言って、父親は子供が待っているだろうと思い、急いで家へと帰りました。
明くる日の朝、あられが降って、あたりは一段とさびしくなりました。
その日、思いがけず、しばらく便りのなかった妹から手紙が届きました。
旅に出ていた妹が、帰ってくるという知らせでした。
「正吉や、叔母さんが帰ってこられるぞ」
父親は、さびしそうにしていた正吉に向かって言いました。
「叔母さんが帰ってくるの?」
正吉はびっくりしたように叫びました。
正吉は、四つか五つの頃に、自分をとてもかわいがってくれた叔母さんがいたことを覚えていました。
たとえ記憶にはほとんど残っていなくとも、絶えず心の中では慕わしく思っていたのです。
正吉の家は、急にパッと明るくなりました。
曇った日に、雲の隙間から太陽の光が差し込んだように、ぱあっと明るくなったのです。
そして叔母さんは、きっとお土産を正吉に持ってきてくれるだけでなく、帰ってきたら正吉に着物を縫ってくれるだろう――そう考えただけでも、父親と正吉の心は希望でいっぱいになり、明るくなるのでした。

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