初級翻訳・怪人二十面相 第24話

怪人二十面相

そうすれば、二十面相逮捕のすばらしい大場面が見物できようというものだが」

賊は、窓の外に突き出された明智のハンカチと、プラットホームの小林少年の姿とを見比べながら、悔しそうにしばらく考えていましたが、結局、不利を悟ったのか、やや顔色を和らげて言いました。

「で、もしぼくのほうで手を引いて、きみを無事に帰す場合には、そのハンカチは落とさないで済ますつもりだろうね。つまり、きみの自由とぼくの自由との交換というわけだからね」

「むろんだよ。さっきから言うとおり、ぼくのほうには今、きみを捕らえる考えは少しもないのだ。もし捕らえるつもりなら、何もこんなまわりくどいハンカチの合図なんかいりゃしない。小林君にすぐ警察へ訴えさせるよ。そうすれば、いまごろはきみは警察の檻の中にいたはずだぜ。ハハハ……」

「だが、きみも不思議な男じゃないか。そうまでして、このおれを逃がしたいのか」

「うん、今やすやすと捕らえるのは、少し惜しいような気がするのさ。いずれきみを捕らえるときには、大勢の部下も、盗みためた美術品の数々も、すっかり一網打尽に手に入れてしまうつもりだよ。少し欲張りすぎているだろうかねえ。ハハハ……」

二十面相は長いあいだ、さも悔しそうに唇を噛んで黙り込んでいましたが、やがて、ふと気を変えたように、にわかに笑い出しました。

「さすがは明智小五郎だ。そうなくてはならないよ……。まあ気を悪くしないでくれたまえ。今のは、ちょっときみの気を引いてみたまでさ。決して本気じゃないよ。では、きょうはこれでお別れとして、きみを玄関までお送りしよう」

でも、探偵はそんな甘い口車に乗って、すぐ油断してしまうほどお人よしではありませんでした。

「お別れするのはいいがね。このボーイ諸君が少々目障りだねえ。まず、このふたりと、それから廊下にいるお仲間を、台所のほうへ追いやってもらいたいものだねえ」

賊は別に逆らいもせず、すぐボーイたちに立ち去るように命じ、入り口のドアを大きく開いて、廊下が見通せるようにしました。

「これでいいかね。ほら、あいつらが階段を降りていく足音が聞こえるだろう」

明智はやっと窓際を離れ、ハンカチをポケットに収めました。まさか鉄道ホテル全体が賊のために占領されているはずはありませんから、廊下へ出てしまえば、もう大丈夫です。少し離れた部屋には他のお客さんもいるようですし、その辺りの廊下には、賊の部下ではない本物のボーイも歩いているのですから。
ふたりは、まるで親しい友達のように肩を並べて、エレベーターの前まで歩いていきました。
エレベーターの入り口は開いたままで、二十歳くらいの制服を着たエレベーター・ボーイが、誰かを待つような様子で立っています。
明智はなにげないふりをして、一足先にその中へ入りましたが、

「あ、ぼくはステッキを忘れた。きみは先におりていてください」

二十面相のそんな声がしたかと思うと、いきなり鉄の扉がガラガラと閉まって、エレベーターは下降しはじめました。

「へんだな」

明智は早くもそれを見抜いていました。しかし、べつにあわてる様子もなく、じっとエレベーター・ボーイの手元を見つめています。
すると案の定、エレベーターが二階と一階との中間、四方を壁で囲まれた場所にさしかかると、突然パッタリと運転が止まってしまいました。

「どうしたんだ」
「すみません。機械に故障が起きたようです。少しお待ちください。すぐに直りますから」

ボーイは申し訳なさそうに言いながら、しきりに運転機のハンドルあたりをいじくりまわしています。

「なにをしているんだ。そこをどきたまえ」

明智は鋭く言うと、ボーイの首筋をつかんで、グイッと後ろに引き寄せました。あまりの怪力だったものですから、ボーイは思わずエレベーターの隅っこに尻もちをついてしまいました。

「ごまかしたってだめだよ。ぼくがエレベーターの運転くらい知らないと思っているのか」

そう叱りつけてハンドルをカチッと回すと、なんと驚いたことに、エレベーターは苦もなく下降をはじめたではありませんか。
一階に着くと、明智はやはりハンドルを握ったまま、まだ尻もちをついているボーイの顔を、グッと鋭く睨みつけました。その眼光のおそろしさと言ったらありません。年若いボーイは震え上がって、思わず右のポケットの上を、なにか大切なものでも入っているかのように押さえるのでした。

機敏な探偵は、その表情と手の動きを見逃しません。いきなり飛びついて、押さえているポケットに手を突っ込み、一枚の紙幣を取り出してしまいました。千円札です。
エレベーター・ボーイは、二十面相の部下のために、千円札で買収されていたのでした。
賊はそうして五分か十分の間、探偵をエレベーターの中に閉じ込めておいて、その隙に階段のほうからこっそり逃げ出そうとしたのです。いくら大胆不敵な二十面相でも、もう正体がバレてしまった今、探偵と肩を並べて、ホテルの従業員や宿泊客で賑わう玄関を通り抜ける勇気はなかったのです。明智は決して捕まえないと言っていますが、賊の身としては、それを言葉通りに信用するわけにはいきませんからね。

名探偵はエレベーターを飛び出すと、廊下を一飛びに、玄関へと駆け出しました。すると、ちょうど間に合って、二十面相こと辻野氏が表の石段を悠々と降りていくところでした。

「やあ、失敬失敬。ちょっとエレベーターに故障があったものですからね、つい遅れてしまいましたよ」

明智は、相変わらずニコニコ笑いながら、後ろから辻野氏の肩をポンと叩きました。
ハッと振り返り、明智の姿を認めた辻野氏の顔と言ったらありません。賊はエレベーターの罠が間違いなく成功するものと信じきっていたのですから。顔色を変えるほど驚いたのも、決して無理はありません。

「ハハハ……、どうかなさいましたか、辻野さん。少し顔色がよくないようですね。ああ、それからこれをね、あのエレベーター・ボーイからあなたに渡してくれと頼まれてきました。ボーイが言っていましたよ、『相手が悪くてエレベーターの動かし方を知っていたので、どうもご命令通りに長くとめておくわけにはいきませんでした。あしからず』ってね。ハハハ……」

明智はさも愉快そうに大笑いしながら、例の千円札を二十面相の目の前で二、三度ヒラヒラさせてから、それを相手の手に握らせました。

「ではさようなら。いずれ近いうちに」

そう言うと、クルッと向きを変えて、なんの未練もなく、あとを振り返りもせずに立ち去ってしまいました。
辻野氏は千円札を握ったまま、あっけにとられて名探偵の後ろ姿を見送っていましたが、

「チェッ!」

と、いまいましそうに舌打ちすると、そこに待たせてあった自動車を呼ぶのでした。
こうして、名探偵と大盗賊の初対面の小手調べは、見事に探偵の勝利に終わったのでした。賊にしてみれば、いつでも捕まえようと思えば捕まえられる立場にありながら、わざと見逃されたわけですから、二十面相の名にかけて、これほどの恥辱はありません。
「この仕返しは、必ずしてやるぞ」
彼は明智の後ろ姿に拳を振り上げ、思わず呪いの言葉を口にせずにはいられませんでした。

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