初級翻訳・魔法博士 第2話

江戸川 乱歩

井上君も、いっしょに逃げながら振りかえってみますと、そいつは、一ぴきの大きなトラにちがいないのですが、ふしぎなことに、そのトラが、ヒョイと後足で立ちあがったではありませんか。
おやっ、とおもって見ていますと、そのトラは、二本の前足で、首にかけていた拍子木をはずして、チョンチョンと、たたきました。
まるで人間のようにうまく拍子木をうつのです。
「おい、ノロちゃん、あれ、人間だよ。
人間が中にはいっているんだよ。
逃げなくてもいいよ。」
井上君は、さすがにおちついているので、それが、こしらえもののトラの皮で、中に人間がはいっていることを見やぶったのです。
「ほんとかい?」
ノロちゃんは一生けんめいに走ったので、ハアハア息をきらせながら、ききかえしました。
「ごらん、ほんとうのトラが、あんなに、拍子木なんかうてるもんか。
人間だよ。
見ててごらん。
いまに、映画の説明をはじめるから。」
ふたりは、だんだん、トラのそばへ近よっていきました。
そのとき、拍子木の音を聞いて、どこからか、二―三人の子どもが走ってきました。
その子どもたちも、トラの姿を見て、ギョッとして立ちどまりましたが、そのとき、トラが人間の声でしゃべりはじめたので、「なあんだ。」というように、こちらへ近よってきました。
トラは、後足で立ちあがったまま、二本の前足で、おかしげな身ぶりをしながら、なにかしゃべりはじめました。
「ああ、いい子だ、いい子だ。
ほんとうのトラだとおもって逃げだしたけれど、また帰ってきたね。
きみたち、勇気があるよ。
感心だねえ。
ほら、これは、ごほうびだ。
お金はいらないよ。」
トラはそういって、自動車の中から、オネスト=ジョンの菓子をもちだし、みんなに、一つずつわたしてくれました。
少年たちは、きみが悪いので逃げだしそうにしましたが、トラが、やさしい声をだすので、やっと安心して、お菓子をうけとりました。
井上君も、ノロちゃんも、それをもらったのです。
ノロちゃんは、あいてが人間とわかると、すっかり気をゆるして、トラのそばにより、背中の毛をなでながら話しかけました。「おじさん、どうしてそんなにいろんなものに変身するの? 自動車がとまるたびに変身するなんて、大変でしょう?」
すると、トラは、まっかな口を大きくひらいて笑いました。
「エヘヘヘヘ……、それはね、わしが変身の名人だということを、みんなに見せたいからさ。
そうすれば、子どもたちがめずらしがって集まってくるし、お菓子もよく売れるわけだからね。
だが、きみと、そこにいるもうひとりの子は、さっきからずっとあとをつけてきたんだね。
わしが、あっというまにどんなものにでも変身できることがわかっただろう。
どうだね、もう少しあとをついてくるかい?
そうすれば、きみたちがびっくりするような、おもしろいものを見せてあげるよ。」
井上君とノロちゃんは、顔を見あわせました。
もう辺りが暗くなっているのに、こんな気味の悪いやつについていっていいのだろうかと、思ったからです。
しかし、自分たちが名探偵・明智先生の弟子である少年探偵団員であることを思いだすと、気味が悪ければ悪いほど、なおさら尾行をつづけなければならないようにも感じられるのです。
勇気のある井上君は、やっぱりこの男の正体につきとめるまで、尾行をつづける決心をしました。
「うん、ぼくたちあとからついていくよ。
でも、おじさんはどこまでいくの?」
「ついそこだよ。
もう十分もかかりゃしないよ。」
トラは前足で向こうの方を指し示しながら、やさしい猫なで声でいいました。
そこで井上君は、しりごみするノロちゃんの手をひっぱって、自動車のあとをつけることにしました。
いよいよ、心配になってきました。
これからいったい、どんなことがおこるのでしょうか。

悪魔の国

移動映画館の小型自動車は、ふたりの少年を従えて、ノロノロと走っていきます。
辺りはだんだん日がくれて、寂しくなり、まっ暗になっていました。
「ノロちゃん、きみ、バッジ持ってるかい?」
井上君が、ノロちゃんの耳に口をつけるようにしてささやきました。
「うん、ポケットにあるよ。
少年探偵団の規則だもん。
いつでもバッジを三十個ずつ、ポケットへいれておけって。」
「そうだよ。
ぼくも三十個持ってるよ。」
それをささやき合うと、ふたりはいくらか安心したような顔つきになりました。
バッジというのは、少年探偵団員が胸につけているB・Dバッジのことです。
このバッジは、団員の目じるしのほかに、いろいろな使い道があるのでした。
それは直径一センチ半ほどの、銀色をしたバッジですが、悪人を尾行していて、逆に悪人のために捕らえられたときなど、このバッジを次々と道に落としておけば、それを目じるしにして悪人のすみかがわかるという便利なものです。
また、悪人と戦うとき、遠くからバッジを投げつけて相手を困らせることもできますし、どこかの家に閉じ込められたとき、窓からこのバッジを塀の外へ投げれば、自分のいるところを団員に知らせることもできます。
もし紙と鉛筆を持っていたら、手紙を書いてその紙にバッジを包んで、塀の外へ投げるという使い道もあります。
それから、団員がどこかに監禁されているとき、その部屋の窓をめがけてバッジを投げ込めば、仲間が助けに来たことを知らせる手立てにもなるのです。
井上君とノロちゃんは、そのB・Dバッジを三十個ずつポケットにいれていました。
手でさわってみると、ジャラジャラと音がするのです。
「あいつ、なんだか怪しいやつだから、もしものときの用意に、このへんからバッジを落としておくことにしよう。
二十歩に一つずつだよ。
いまから二十歩歩いたら、ぼくが一つ落とす。
そのつぎの二十歩めに、きみが一つ落とす。
そういうふうにして、かわりばんこに道へ落としていくことにしよう。」
井上君がささやきますと、ノロちゃんもうなずいて、
「うん、それがいい。
二十歩に一つずつなら、ずいぶん長くつづくからね。」
このバッジを二十歩ごとに落としておくというのも、少年探偵団の規則でした。
だれかが行方不明になったときは、まずバッジをさがし、それがみつかったらそこからどちらの方角へも二十歩ずつ歩いてみて、つぎのバッジをさがし、それを繰り返して行方をつきとめるという申し合わせなのです。
さて、怪人物のノロノロ自動車は、寂しい方へ、寂しい方へと進んで、しばらくすると、大きな神社の森の中へはいっていきました。
もう辺りはまっ暗です。
森の中には街灯がごくわずかしかないので、足もとも見わけられないほどです。
「よそうよ。
もう帰ろうよ。
ぼく、こわいよ。」
ノロちゃんが井上君の手をひっぱって、だだっ子のように立ちどまってしまいました。「だめじゃないか。せっかく、ここまできたのに。ここは山の奥じゃないよ。この森の向こうには、にぎやかな東京の町がつづいているんだよ。それに、バッジがぼくらを、まもってくれるから、だいじょうぶだよ」
井上君は、ノロちゃんの耳に口をつけて、しかるようにささやきました。
そのときです。
森のやみの中に、やみよりも黒いものが、モヤモヤと動きだすのが見えました。

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