その出来事のあとで不思議なことが次々と起き、「神様のお告げの夢」を見た人々は、お社を今の場所へ引っ越すことになったというお話です。
神様をフナの姿に見立てるなんて少し変なお話に思えるかもしれませんが、昔の人々にとっては、神様にお供えする魚というのは、やがて神様のお体の一部となる大切なものだったのです。だからこそ、お供えする前の段階からすでに大変尊いものだと考えていたのでしょう。
それがまた、「片目の魚をおそれて、普通の食べ物にしてはいけない」と思ったもとの理由だったに違いありません。
昔の言葉では、こうして長い間、神様に生きたままお供えした魚などを放して飼っておくことを「いけにえ(生贄)」と言っていたのです。神様がますますやさしい心になられて、魚を食べることも好まなくなると、いつでも片目の魚が神社の池の中で気持ちよさそうに泳ぎ遊ぶことになりました。しかし、魚を片目にするお祭りや儀式だけは、ずっとあとの時代まで行われていたのではないかと思います。
「まないたわ(俎岩)」という名前の平らな石が、ときどき神社に近い山や川の岸に残っていて、昔そこで神様にお供えする料理を作ったのだと語り継がれています。
広島県(備後)の、魚がたくさんいる池という池には、水のほとりに大きな石が一つあって、村の人たちはそれを「魚が石(うおがし)」と呼んでいました。
この池の魚たちにも片目のものがいると言われており、村の人たちはひでりの年になると、ここへやって来て雨乞いのお祭りをしたそうです(『芸藩通志』広島県世羅郡神田村蔵宗)。
また、徳島県(阿波)の福村という地域の谷にある大池の中には、まわりが九十尺もあり、水面からの高さが十尺ほどもある大きな岩がドンとそびえています。この池でも、コイやフナをはじめ、小さな雑魚にいたるまで、一匹残らず目が一つだけだと言われています。
その岩の名前を、今では「蛇の枕(じゃのまくら)」と呼んでいます。昔、月輪兵部殿(つきのわひょうぶどの)という武士が、この岩の上で遊んでいた大蛇を弓で射て、左の目をビューンと射抜いたところ、その武士の一家はみんな恐ろしいバチを受けて死に絶えてしまいました。
その大蛇の深い恨みがいつまでも残り、池の魚がいつの時代も片目になってしまったのだと言い伝えられています。ですが、これもまた「別の二つのお話」を結び合わせたものなのだろうと私は思います(『郷土研究一編』徳島県那賀郡富岡町福村)。
大蛇というのは、もちろんこの池の主のことであり、片目のコイやフナは、その神様にお供えする「いけにえ」でした。
それと、「ある勇敢な武士が、水の神さまと戦って、はじめは勝ったけれど、あとで負けてしまった」という古い昔話とがごちゃまぜになって、新しい伝説ができあがったのかも知れません。
しかし、こうした池の主だけに限りません。神様の中にも「目が一つしかない方」がいるということは、はるか大昔から言い伝えられてきたお話なのです。
どうしてそんなことを考え出したのか理由はわかりませんが、少なくともそれが「いけにえの魚の目をあらかじめ抜いておいた」ということと、深い関係があるのだけは確かです。
だからこそ、目が片方だけ小さい人や、より目(すがめ)の人が、神様から特別に可愛がられるように思う人たちがいたのです。
「大蛇が自分の目を抜いて人間に与えた」というお話は、日本中のあちこちの昔話として広く語り継がれています。
その中でも、佐賀県(肥前)の雲仙岳(温泉嶽)のまわりに伝わるお話は、ことにおそろしく、そして子供とも深く関係しているので、ひとつだけここで紹介しておきましょう。
むかし、この山のふもとにある村に一人の狩人が住んでいました。その家へ、若くて美しい娘がどこからかお嫁にやって来ましたが、このお嫁さん、実は本当は大蛇だったのです。
子どもが生まれるときに、「絶対に部屋の中をのぞいてはいけないよ」と妻が言ったのですが、夫はかえって怪しく思い、こっそり戸のすき間からのぞいてみました。するとそこには、恐ろしい大蛇がとぐろを巻いて、生まれたばかりの赤ん坊をやさしく抱きかかえていたのです。
やがて、もとの人間の女の姿に戻ってきた妻は、「姿を見られてしまったからには、もうここにはいられません。子どもが泣くときは、この玉をなめさせてやってください」と言い残し、自分の右の目を自分でスポンと抜いて置いて、お山の沼へ帰っていきました。
残された家族はこの目玉を宝物のように大切にしていましたが、その不思議なうわさが村中に広まり、ついに殿様にとりあげられてしまいました。そのため、赤ん坊がお腹をすかせて激しく泣き立てても、もうなめさせてやることができません。
すっかり困り果てた親子は山に登り、沼の岸に出てシクシク泣いていると、水面から突然大きな波がザブーんと立ち、片目の大蛇が現れました。そして、詳しい事情を聞くと、残った「左側の目玉」をさらに抜いてくれたのです。
親子は大喜びでその目玉をもらって帰り、子どもを育てていましたが、しばらくすると、その二つ目の玉までもまた殿様にとりあげられてしまいました。
「もうどうしようもないから、沼に身を投げて死んでしまおう」と思いながら、親子がまた同じ沼へやって来ますと、今度は「目が見えなくなった大蛇(盲の大蛇)」が姿を現しました。そして事情を聞くと、ものすごく怒り出しました。
「そんなひどいことをする人間どもには、しかえしをしてやらなければならない。お前たちは早く逃げて、〇〇という場所へ行きなさい。そこではきっと良い乳をもらうことができるから」と言って、親子の者をすぐに逃がしました。
そのあと、この山で恐ろしい大噴火が起き、山がガラガラと崩れ、田んぼも海もすべてが泥に埋まってしまったのは、この目の見えない大蛇の恐ろしいしかえしだったのだと言い伝えられています(『筑紫野民譚集』)。
静岡県(遠州)の有玉郷(ありたまごう)では、天竜川の大蛇を母親にして生まれた子どもが、二つの不思議な玉をもらって、それを手に入れ立身出世をしたというお話が古くからあったようですが、「目を抜いた」ということについては、そこでは語られていなかったように思います(『遠江国風土記伝』)。
何にしても、「目が一つしかない」ということは、何か不思議な力があるしるしであり、同時に「恐るべきもの」のしるしでもありました。
東北地方(奥州)の方では「ひとつまなぐ」、東京では「一つ目小僧」などと言って、顔の真ん中に目が一つだけあるお化けを想像するようになったのも、まさにこれが原因なのです。
しかし日本のはじめの頃には、片目のフナのように、もともと二つある目の片方が潰れたもの――ことに、わざわざ人間の手で二つの目を「一つ目」にしたその力の源(みなもと)を、人々はおそれ、そして同時にとても尊いものとして敬っていたのです。
だからこそ、「月輪兵部が大蛇の目を弓で射貫いた」というお話なども、もしかすると、もっと別のもっと古いお話が最初にあって、それがのちの時代の勇士の活躍談へと、いつの間にかすり替わってしまったのではないかと私は思います。
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