初級翻訳・日本の伝説 第8話

日本の伝説

しかし、そうした原因だけがあったからといって、他のいろいろな「驚き清水」や「おまんが井」、「阿満が池(あまんがいけ)」といった不思議な伝説の数々までがすべて生まれたわけではなかったろうと私は思います。
念仏の僧たちが日本国中を行脚して歩くようになったよりも、なおずっと昔から、人々は水の恵みをとても大切に感じており、そこに神さまをお祭りしてそのお力をありがたく敬っていたことこそが、むしろ念仏という信仰を泉のほとりへと引き寄せたのかも知れません。
そして、そうして祭られた神さまが、のちの時代に「姥神(うばがみ)」という名前で広く知られるようになった「子安の神(こやすのかみ)」であったということは、これからお話ししていこうと思う数々の伝説によって、だんだんと分かってくるのであります。

—

【大師講の由来】

伝説の上では、空也上人よりもさらに広く日本国中を歩き回り、もっとたくさんの清らかな泉を、村々の住民のために見つけてあげた「お大師様」という偉いお坊さんがいました。
大抵の土地の人たちは、そのお大師様といえば高野山(こうやさん)の「弘法大師(こうぼうだいし)」のことだと思っていました。しかし、歴史上の弘法大師は三十三歳のときに遠い中国(唐)へ渡って仏の教えの修業をして帰ってきてから、その後の三十年の間に高野山を開き、とても難解でたくさんの書物を残し、さらに京都の人々のために大切ないろいろな仕事をしていましたから、そんな日本中の遠方まで旅行をしてまわることなど本当はとてもできない人でした。
それほどにえらいお坊さんでしたから、「亡くなったように見せかけて、実は本当はいつまでも国々を巡り歩いて修業を続けておられるのだろう」と考えている人も少なくありませんでした。だからこそ、こんな素晴らしい伝説が日本中に広く言い伝えられてきたのでしょう。
高野山の大師堂では、毎年四月二十一日の「御衣替え(おそがえ)」の日に、大師堂にあるお像の衣を着替えてみると、いつもその一年の間に衣の裾がすり切れて、泥に汚れているのだそうです。
「それが、今でも人に知られずこっそりと、この弘法大師さまが私たちの村を歩いておられる動かぬ証拠なのだ」などと言う人もありました。
とにかく、伝説の中の弘法大師は、どんなに遠い田舎の村へでも本当によく出かけました。
その記念として各地に残されている不思議なお話は、どれもこれもみな似たようなものばかりですが、その中でも一番数が多いのは、今まで一滴の水も出なかったような土地に、美しく、また豊かな清水を与えていってくれたというお話なのでありました。東日本のほうでは、大抵は「弘法井(こうぼうい)」または「弘法池(こうぼういけ)」などと呼び、九州ではただ「御大師様水(おだいしさまみず)」と呼んでいます。
もとはただ「大師様」と呼んでいたのが、あとになってから「これだけ大師様と呼ばれるからには、きっと弘法大師様にちがいない」と思う人が増えていったからなのです。
あまりにも同じようなお話がたくさんあって、いくつも並べてみたところで面白くありませんから、私は今知っているお話をただ飛び飛びに書き留めておくことにします。
みなさんも、誰かに尋ねてみてください。
きっと近くの村に、そんな言い伝えが残っていることでしょう。そして、そのお話にはいつでも必ず「おばあさん」が登場するのです。
ふだんは飲み水が十分に手に入らないような土地にこそ、こうした昔話が数多く伝わっています。
それだけ水に恵まれたときの喜びが大きくて、人々がいつまでもその感動の心を忘れることができなかったからなのだろうと私は思います。
石川県の能美郡(のみぐん)などでも、村々に「弘法清水(こうぼうしみず)」があって、どこも大師様がやって来られるよりも前の時代、水にとても苦労していたことを語り伝えています。
たとえば粟津村(あわづむら)の井の口(いのかち)にある「弘法の池」は、村の北のはしにあるみんなの共同井戸ですが、昔ここにはまだ一つも泉がなかった頃のことです。あるおばあさんがお米を洗うための水を遠くまでくみに行っているところへ、ちょうど通りかかった大師様が、「のどが渇いたからその水を飲ませておくれ」と声をかけられました。
おばあさんは、自分たちの大切な水を少しも惜しむことなく、快くお分けしました。すると大師様は、「そんなに水がないのなら、一つ井戸を授けよう」と言って、持っていた旅の杖を地面にぐっと突き立てました。すると、たちまちそこから良い水がわき出し、この池になったのだと言い伝えられています。
鳥越村(とりごえむら)の釜清水(かましみず)という集落なども、「釜池(かまいけ)」という清水が村の名前になるほど、今ではとても有名になっていますが、もとはやはり水が少なくて、わざわざ遠くの手取川(てどりがわ)まで水をくみに行っていたのです。
その土地の古い家柄である次郎左衛門(じろうざえもん)という人のご先祖のおばあさんが、親切にその水を大師様差し上げたお礼として、大師様が家の前にこの池を作ってくださったのだそうです。
だから今でも池のほとりには大師堂が建てられ、水のありがたさに感謝しているということです。
花坂(はなさか)という村にも、もとは良い水がありませんでしたが、ある家の年老いたおばあさんが遠くからくんできた水を大師様に差し上げました。
すると、大師様はまた杖をついて、「ここを掘ってごらん」と言って出かけていかれました。
それが、今日ある花坂の弘法池なのです。
ところが、その近くの打越(うちこし)という村では、今でも井戸がなく、毎日川へ水くみに出かけています。
これは昔、その村のおばあさんが、大師様から「水がほしい」と言われたときに、腰巻(こしまき)を洗っていたそのきたない水を差し上げたバチが当たったからだと言い伝えられています。
湊(みなと)という村にも、以前は二つも弘法大師の清水があり、今ではその一つは手取川の堤防の下になってしまいましたが、これも大師様が杖の先で地面を突き出して作った泉だと言われていました。
ところがそのお隣の吉原(よしわら)という村には、そうしたありがたい井戸がないばかりか、今でも「吉原の赤脛(あかはぎ)」と言って、村の人が股引(もとひき)をはくと病気になるという言い伝えがあり、冬でも赤いむき出しの足で過ごしています。これもやはり、昔あるおばあさんが股引を洗濯していて、せっかく「水をいっぱいくれ」と頼まれた弘法大師様に、その洗い水をひっかけたからだと言い伝えられています。
親切にした良いおばあさんのお話と、意地悪をした悪いおばあさんのお話は、なんだか『花咲爺(はなさかじじい)』や『舌切り雀(したきりすずめ)』の昔話のようではありませんか。
(以上はすべて『能美郡誌』より)
それから、能登(のと)のほうの羽阪(はさか)という海岸の村では、昔、弘法大師がこのあたりを通って水を求められたとき、人々が情けなくも水を惜しんで分けてあげませんでした。そのため大師様は怒って、村中の水をすっかり地中へ閉じ込めてしまわれたのだと言います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました