初級翻訳・信濃桜の話 第3話

信濃桜の話

もしかすると、二つの名前が別々に生まれて、後になって一つに混ざり合ってしまったのかもしれません。
実際に今でも「泰山府君」という桜には、さらに五つもの変種があるといいます。
信濃桜の場合も同じことですが、名前というのはあくまで一つの手がかりに過ぎません。名前にばかり重きを置くのではなく、物の違いや、それがどう広まり、どう守られてきたかという理屈をたどらなければならないと思います。
これこそが、文字による記録だけを唯一の資料として進んできた、今までの学問が改められるべき点なのです。
そうは言いつつも、私たちの探究というものは、ともすれば古いやり方に頼りがちです。しかし、問題の中心をはっきりと見定めて、そこへ向かって少しずつ近づいていくことで、そうした偏りは防ぐことができます。
仮に、京都で数百年前から「信濃桜」と呼ばれていた花が、今も信州で見られる老木の枝垂桜のことだとし、それが北は奥羽(東北地方)の果てまで分布して、皆に愛されていたと結論づけたとしても、そこで止まってしまってはただの博識に過ぎません。記憶するほどの価値もない、小さな事実に過ぎないのです。
私たちが問題にしなければならないのは、「なぜこのような枝の垂れた糸桜が、もとは限られた一地域の産物だったのに、後には広く国中で愛されるようになったのか」ということです。
単に珍しいものをめでる心以外に、何かその背後に、昔からこの木を大切に思わなければならない感覚があったのではないか。私はそう考えています。

私の一つの仮定は、神霊が木に宿るという考え方の中で、大空を行く神様が地上に降りてくるには、特に「枝の垂れた木」を選ぶだろうと想像するのが、もともとは普通だったのではないか、ということです。
つまり、幽霊を垂れ下がった柳の陰に見るのと、同じ気持ちが桜や栗の木の場合にも働いていたのではないでしょうか。
少なくとも今は、そう思ってこの問題を観察しています。
家の庭や、蹴鞠(けまり)の場所の目印としてこれを植えるのは、時代の変化によるものであり、ある種の忘却とも考えられます。やはり、神社の境内や寺の門前など、霊地というべき場所に限って植えられていたのが、田舎に古い感覚が取り残されている例なのかもしれません。
つまり、都会か田舎か、古い時代か新しい時代かという区別にはよらないのです。
『行脚随筆(あんぎゃずいひつ)』という百数年前の紀行文に、上州(群馬県)北甘楽郡下滝村の慈眼寺に、古い枝垂桜があったことが記されています。
足利尊氏がここに来てこの花を愛で、連歌の会を催したという話はさておき、今でも村の人々はここを「冥土の往来の入口」と呼び、ある洞穴をその言い伝えと結びつけています。それだけでなく、かつて亡霊が現れて「この桜の花を見てきた者は、地獄の苦しみを免れるだろう」と言ったという話まで語り継いでいるのです。
「花見」というものが、かつては一つの祭りの儀式であった時代が、古い時代にはあったのではないかと考えられます。
その「最初の木」が、枯れずに残っているはずはありません。しかし、昔は山野にそういった木がある場所へこちらから出向いて迎え祭りをしていたものが、後々になって人間が勝手に霊場を作るようになってからは、次第に若木を育てたり、植え替えたりする習慣が生まれたのではないでしょうか。それが、この一種の木の分布を助けたとも見られます。
元の場所がどこかを特定することはできなくても、ともかく今の社や寺の創立よりも古く、あるいはそれとは縁のない由来不明の、いわゆる「雑種地」のような場所に、たびたび枝垂桜の老木を見かける地方があれば、そこはかつて信仰や習俗が行われていた遺跡であると推定してよいのではないでしょうか。そう簡単にひとまとめにして言ってしまうことはできませんが、それでも「ものすごく大きな木があった」という古い記録については、注意深く見ておく必要があると私は考えています。

江戸時代の随筆『松屋筆記(まつやひっき)』の巻八十八には、次のようなことが書かれており、これは文政(ぶんせい)という時代の実際の出来事です。

「益沢(ますざわ)の勾当(こうとう)が話すには、信州(しんしゅう)の飯田(いいだ)にある真言宗(しんごんしゅう)の普門院(ふもんいん)には、人が両手をまわしても六つ半(むつはん)ほどの太さがある大きなシダレザクラがあり、またその近くの山本村(やまもとむら)にある近藤登之助(こんどうとのすけ)の陣屋(じんや)にも、七抱えもあるシダレザクラがあったという。
さらに高遠城(たかとおじょう)には、五抱えの桜があった。これが『かば桜』なのか『しだれ桜』なのかははっきり分からない、とのことである」

京都にある伏見宮(ふしみのみや)や近衛殿(このえどの)のお庭にある桜などと比べたとき、どちらがより古い木だったのかを決めるのは難しいですが、少なくとも先ほど挙げた二本の大木などは、そこにあるお寺や陣屋よりも、ずっと昔からそこにあったものでした。
それが、もともと生えていた自然の木をそのまま残したものというわけではなく、わざわざ若い木をどこかから植え替えてきたものだとしても、その目的や意味合いは、京都の二つの場所とはまったく違ったものだっただろうと、私は確信しています。

(※補足:別の著作である『山宮考(さんみやすべき)』の中には書き残しませんでしたが、伊勢の山田にある度会氏(わたらいし)の「山宮(やまみや)の祭場」には、「泰山木(たいさんぎょく)」と呼ばれる木があって、そこで大切なお祭りが行われていたと、いくつかの古い本に書かれています。
その「泰山木」とは、いったいどんな種類の木だったのでしょうか。
今となってはもうその痕跡(こんせき)かすら残っていないかもしれませんが、誰かその木について覚えている人はいないでしょうか。
もしかすると、それは桜の木のことだったのではないでしょうか。
なお、そもそもどうやってそのような名前が生まれたのかという謎も、私にとっては大きなヒントになるのです。)

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