それなのに、不思議なことにこの泉の名前を「驚き清水(おどろきしみず)」と呼んでいました。(『撫子日記(なでしかにっき)』。宮城県玉造郡岩出山町)
「驚き清水」というのは、ふだんの池や泉とはちがって、まるで人間のような感覚を持った「生きている水」なのだと考えられていたようです。
『豊後風土記(ぶんごふどき)』という、今から千年あまりも昔の本にも、そんなお話が書かれています。
おそらく今の別府(べっぷ)の温泉の近くのことだと思いますが、「玖倍利湯の井(くべりゆのい)」という温泉は、いつもは黒い泥がいっぱいで、お湯は流れていません。しかし、人がこっそり湯の出入口のそばに近づき、ふいに大きな声を出して何か言葉を発すると、驚いたように鳴り響いて、二丈(にじょう=約6メートル)もの高さまで激しくわき上がると言われているのです。
のちの時代になると、こうしたお話がぜんぶ「念仏」に関するものばかりになっていったのは、つまり世の中で念仏がものすごく大流行したからなのだろうと思います。
この国(大分県)の田野(たの)の千町牟田(せんちょうむた)には、「朝日長者(あさひちょうじゃ)の屋敷跡」という場所があって、そこには「念仏水」という小さな池がありました。
人がその岸に立って「南無阿弥陀仏」ととなえると、水もそれにお返事をするかのように泡を立てて、ブツブツと音を立てたというお話が残っています。(『豊薩軍記(ほうさつぐんき)』。大分県玖珠郡飯田村田野)
それから、この県の東の沖にある「姫島(ひめしま)」という島には、「拍子水(ひょうしみず)」と名づけられた、手をパンと叩くとその響きにあわせて水が勢いよくわき出る泉があって、これを「姫島の七不思議」の一つとして数えていました。
この島の神さま・赤水明神(あかみずみょうじん)は、女性の神さまでした。
女神さまがこの水を手にすくって、歯をお黒く染めようとなさったところ、水の色が赤茶色(赤錆色)だったため、別名「銕漿水(かねしょうすい=お歯黒に使う水)」という名前もありました。
神社のお社(やしろ)はその泉の前にある岩の上に建っており、ご神体は筆を手にして、歯を染めようとしている女の人の御姿をしていました。
不思議なことに、ただ手拍子にあわせて水がわき出るというだけでなく、おなかの調子が悪い人がこの水を飲むと治り、さらに皮膚の病気にも、この水を塗れば治ったということは、美濃の伊自良の念仏池などと同じでした。(『日女島考(ひめしまこう)等』。大分県東国東郡姫島村)
中国(清の時代などの大陸)にも、これとよく似た泉があちこちにあったそうで、土地によっていろいろな名前がつけられていました。
ある場所では、それを「咄泉(とっせん=驚いて「おっ」と声を出すと水がわく泉)」と呼んでいたということです。大声を出すと水がわき出す清水というものがあります。
ある場所では「笑泉(しょうせん)」と呼ばれ、人が笑い声を出すと水が急にわき上がったというお話もあり、驚きの清水もこれとまったく同じ意味なのです。
「喜客泉(きかくせん)」は、人がやってくると喜んで水がわく清水で、「撫掌泉(ぶしょうせん)」というのは、手をパチンと打つとその声や音に応じて水が流れるという意味でありました。
しかし日本でも、絶対に念仏をとなえなければお湯や水がわき出なかったというわけでもありませんでした。
実際にその場所へ行って自分の目で確かめてみないとはっきしたことは分かりませんが、大抵はまわりの土がやわらかくて、人間の足踏みの力が地面から水に響きわたったのではないかと私は思います。
常陸(ひたち)の青柳(あおやぎ)という村の近くには、「泉の杜(いずみのもり)」というお社があって、そこの清水も人間や馬の足音を聞きつけると、まるですっかり煮え立ったお湯のようにボコボコと激しくわき返るのだと言われていました。そのため人々はこれを「活き水(いきみず)」と呼び、また「出水川三日の原(でずいがわみかのはら)」という古い言い伝えの場所はここだと言う人もいました。
(『広益俗説弁遺篇(こうえきぞくせつべんいへん)』。茨城県那珂郡柳河村青柳)
甲州(こうしゅう=山梨県)の佐久神社(さくじんじゃ)にある「七釜の御手洗(なのかまのおみたらい)」という清水なども、人がそのそばを通ると水がたちまちわき上がり、細かな砂が水面にフワフワと浮き乱れて、とても珍しい見物になるというお話があります。
ただ近くを通っただけでもすぐに水がわき立つくらいですから、もしそこで「南無阿弥陀仏」とお題目をとなえたり、「姥(うば)、甲斐(かい)がないぞ!」などと声をかけたりしようものなら、もちろんもっと盛んにお湯や水がわき上がったことでしょう。ただ、ここでは誰もわざわざそんなことをして試してみようとしなかったというだけなのであります。
(『明治神社誌料(めいじじんじゃしりょう)』。山梨県東八代郡富士見村河内)
むかしの人たちは、生活に大切な飲み水を見つけることが、今の人たちよりもずっと下手でした。
深い井戸を掘り下げて、地面のずっと底にある地下水をくみ上げるという方法は、長い間知られていなかったのです。
そのため、わざわざ遠くの川や池まで出かけたり、あるいは「筧(かけい=竹や木の管)」というものをかけ渡して、遠くの山などから水を引いてきたりしていました。そのため、水源からあまり離れた場所には家を建てて住むことができなかったのです。
そんななか、たまに思いがけない土地で美しい泉を見つけると、人々はとても喜び、そこに神さまをお祀(まつ)りしました。
そしてそこからおいおいと泉のまわりに村を作り、旅人たちもその道を通り過ぎていったのです。
水がないことで一番困っていたのは旅の人たちでしたが、その中には水を見つけることが普通の人よりもすごく上手な人がいて、土地の様子をじっくりと見て地下に水があることを見ぬき、井戸の掘り方を教えてくれたのも、きっと彼らだったのだろうということです。
諸国の山や野原を自由気ままに歩いていた「行脚の僧(あんぎゃのそう)」、とりわけ「空也上人(くうやしょうにん)」という人などが、多くの村々に良い泉を見立てて残してくれたということで、今でも長く村の人々に深く感謝されているのです。
空也は、この日本国に念仏の教えを広く弘(ひろ)めた元祖の上人でありました。
後の世になってその生き方を慕う人たちは、いつの時代でも美しい清水をくみ上げるたびに、必ずこの空也上人のことを思い出しました。
日本各地に「阿弥陀の井(あみだのい)」という古い井戸がとても多いのは、おそらくその水のほとりにおいて、人々がしばしば念仏の行(ぎょう)をおこなったためであろうと私は思います。
空也の流儀の念仏は、たくさんの人がワイワイと集まってきて、踊り狂いつつ大きな声で合唱するというものでした。
「念仏池」の不思議な現象が、土地の人たちの注目を集めるようになったのにも、ちゃんとそれだけのしっかりとした原因があったというわけです。
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