初級翻訳・日本の伝説 第21話

日本の伝説

そのため、「これから先、我が氏子となる者は、忘れても麻を作ってはならない」といういましめがあり、今でも一人としてこの言い付けに背く人はいないそうです。
(『北野誌』。滋賀県栗太郡笠縫村川原)

また、蒲生郡(がもうぐん)の川合(かわい)という村では、昔このあたりの領主であった河井右近太夫(かわいうこだゆう)という人が、伊勢の楠原(くすはら)という所で戦をして、麻畑の中で討ち死にしたという理由から、もとは村じゅうで麻だけは作らなかったということです。
(『蒲生郡誌』。滋賀県蒲生郡桜川村川合)

関東地方に行くと、下野(しもつけ)の小中(こなか)という村では、キビを育てることをいましめています。これも、村の守り神である人丸大明神(ひとまるだいみょうじん)が、まだ人間だったころに戦で傷を負って逃げてきて、この村のキビ畑の中に身を隠し、どうにか危ういところで命拾いはしたものの、キビの茎で片目をつぶされてしまったからです。
そのため、神様になられた後でも、この作物はどうもお気に召さないのだということです。
(『安蘇史』。栃木県安蘇郡旗川村小中)

この近くの村々には、戦に出て目を射抜かれた勇士の話や、その目の傷を洗った清水、それから山鳥の羽根で作った矢をきらうという伝承などが特にたくさんありますが、あまり長くなってしまうのでここで終わりにして、次は「村の住民が、神様との関わりで片目になってしまう」というお話を少しご紹介しましょう。

福島県の土湯(つちゆ)は、吾妻山(あづまやま)のふもとにある素敵な温泉で、弘法大師(こうぼうだいし)がどんな杖でも立ててしまいそうな場所ですが、この村には太子堂(たいしどう)があって、若き日の聖徳太子の木像がおまつりされています。
昔、この村の狩人が鹿を追いかけて沢の奥へ入っていくと、突然草むらの間から「背負っていけ、背負っていけ」という声が聞こえました。そこで探してみると、この聖徳太子のお像だったのです。
狩人はびっくりして、さっそく背中に背負って村へ帰ろうとしましたが、途中でササゲのツルにからまって転んでしまいました。狩人は自分怪我はしなかったものの、太子様の目をゴマの茎で突いてしまったのです。今でも見てみると、その木像の片目からは血が流れたようなあとが残っているそうです。
そして、この村で生まれた人は、みんな少しばかり片目が細いというお話がありましたが、この頃はどうなっているのか、私はまだ聞いていません。
(『信達一統誌』。福島県信夫郡土湯村)

左右の目の大きさが同じでない人は、意外とたくさんいるものですが、大抵の人は誰も何とも思っていません。
村によっては、「昔、村の守り神様が隣りの村と石合戦をして目をケガされたからだ」という話を、子どもたちだけが語り伝えている所もありますが、大抵はもう古い話をすっかり忘れてしまっています。
それでも、土湯のように実際にそういうご神像が残っている場合だけは、ちょっと間違っているかもしれませんが、まだ記憶に残り続けていたのであります。

三河の横山(よこやま)という村では、氏神さまである白鳥六社さま(しらとりろくしゃさま)のご神体が片目でした。
そのため、この村にはどうも片目の人が多いようだということです。
(『三州横山話』。愛知県南設楽郡長篠村横川)

石城(いわき)の大森(おおもり)という村では、庭渡神社(にわわたじんじゃ)のご本尊はもともと地蔵様で、非常に美しい姿のお地蔵様だったのですが、なぜか片目が小さく作られていました。
だから、「大森の人は誰でも片目が小さいのだ」と、村の中でもみんなで言い合っているそうです。
(『民俗一編』。福島県石城郡大浦村大森)

それからまた、村全体でなくとも、特別な関わりのある特定の家系の人々だけが、代々片目であったというお話もあちこちにあります。先ほどお話しした甲州の山本勘助(やまもとかんすけ)の家などもその一つです。

丹波(たんば)の独鈷抛山(とっこなげやま)の観音さまは片目でした。
昔、この山のてっぺんの観音岩の上で、観音様が白いハトの姿になって遊んでいらしたのを、ふもとの柿花村(かきはなむら)の岡村(おかむら)という家の先祖が、そうとは知らずに弓で射たところ、その矢がちょうどハトの目に命中しました。
血のしずくの跡をたどっていくと、それがこのお堂の奥にやって来てピタリと止まっていたので、とても驚きました。
それ以来、この家では子孫代々のおのおのが目を病むようになり、たまたまお兄さんが弓を射れば必ず弟の目にその矢があたる、と言われるようになりました。そのため、すっかり弓矢の技をやめてしまったということです。
(『口丹波口碑集』。京都府南桑田郡稗田野村柿花)

羽後(うご)の男鹿半島(おがはんとう)では、北浦(きたうら)の山王様(さんのうさま)の神主である竹内丹後(たけうちたんご)の家に、先祖代々七代にわたって片目であったという伝説が残っています。
この家の初代である竹内弥五郎(たけうちやごろう)は、弓矢の達人でした。
八郎潟(はちろうがた)の主である八郎権現(はちろうごんげん)が、冬になると戸賀(とが)の一の目潟(いちのめがた)に住もうとしたのを、一つ目潟の姫神に頼まれて、寒風山(かんぷうざん)の峰で待ち伏せをし、弓で射てその片目を傷つけたということです。
そうしたところ、八郎神は雲の中からその矢を投げ返して、弥五郎の目にあたったとも言われていますし、あるいはその日の夜の夢に現れて「七代の間は目を半分にしてやる」と告げたとも言われています。どちらにせよ、弥五郎神主の子孫の家では、当主が必ずすがめ(斜視や片目が不自由な様子)だったそうです。
(『雄鹿名勝誌』。秋田県南秋田郡北浦町)

この竹内神主の家には、神様の目を射抜いたというその矢の根が、大切な宝物として代々伝えられて残っているのです。神に敵対をした罰として、片目を失ったということが間違いでなければ、どうしてこんな大切な記念品をずっと大事にしまっていたのでしょうか。なんだかちょっと不思議な気がしますよね。
もしかすると、神様が片目の魚をお喜びになったのと同じように、本当は片目の神主さんのことが、神様もお気に入りだったのではないでしょうか。
野州の南高岡村(なんこうおかむら)にある鹿島神社などでは、神主である若田(わかた)家の先祖は、池速別皇子(いけはやわけのおうじ)という立派な方だったと言い伝えられています。
この皇子様は、関東地方をご旅行されていたときに、目の病気にかかって一方の目を悪くされてしまいました。そのせいで、都へ帰ることを許されなくなってしまったのです。
それでこの村にとどまり、神主の家をおこしたのだということです。
(『下野神社沿革誌』栃木県芳賀郡山前村南高岡)

それから、奥州の只野村(ただのむら)は、あの有名な鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)が、「後三年の役(ごさんねんのえき)」という戦いでの大きな手柄によっていただいた領地だったと言われています。村の御霊神社(ごりょうじんじゃ)にはその景政がまつられており、自分たちはその子孫だと名乗る多田野(ただの)という家が、後々までずっと住んでいました。

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