その水をなめてみると、なんと本物の塩水だったのです。そして、そのお坊さんこそが弘法大師様だったと、古い記録にも書かれているそうです。
(『安房志』。千葉県安房郡豊房村神余)
いくら古い記録に書いてあるからといって、これが本当の歴史ではないことは、誰にでもすぐに分かります。
弘法大師が日本中を旅していたはずの大同三年頃には、まだ金丸家も杉浦家も、どちらもまだ生まれていなかったからです。
それよりも、みなさんにお話ししたいのは、「十一月二十四日の前の晩」のことです。今でも関東地方の村々では、「お大師講(だいしこう)」といって、小豆のおかゆを煮ておまつりをする日だからです。
天台宗のお寺などでは、この日がちょうど天台宗のえらいお坊さんである「智者大師(ちしゃだいし)」が亡くなった日に当たるので、そのつもりでお大師講を営んでいます。ですが、ほかの多くの田舎の村々では、これも弘法大師様のことだと思い込んでいるのです。
智者大師というのは、「智※(ちぎ)」という名前で、今から千三百四十年ほど前に中国で亡くなった高名なお坊さんですが、生きているうちは一度も日本へ来たことがない人でした。
また、弘法大師の方も、この十一月二十三日の晩とは、本当は少しも関係がなかった人なのです。それなのに、どこの村でも「この一晩に限っては、お大師様が必ず家から家へと巡り歩いてくださる」と信じて、このおまつりをしてきたのでした。
昔のカレンダー(旧暦)では、十一月の終わり頃になると、もうかなり寒くなります。
長野県(信州)や新潟県(越後)などでは、そろそろ雪が降り始める頃ですが、「この二十三日の晩には、たとえわずかであっても、必ず雪が降るものだ」と言われていて、人々はその雪を「でんぼ隠しの雪」と呼んでいました。
そして、この雪のお話にも、やはりおばあさんの伝説がくっついていたのです。
信州などの地方の言葉で「でんぼ」とは、足の指がないことや、足に障害があることを意味します。
むかし、とても信心深くて貧乏なおばあさんが、「どうかお大師様に何かおいしいものを差し上げたい!」という一途な思いから、ほかの人の畑に入って、こっそり芋や大根を盗んできました。
そのおばあさんは足に障害(でんぼ)があったため、地面に足跡が残ってしまうと、誰が盗んだのかすぐにバレてしまいます。「それはあまりにもかわいそうだ」と思った大師様が、わざわざ雪を降らせてその足跡をすっぽり隠してくださった。
そのときの雪が、今でもこの時期になると毎年降るのだと言い伝える人たちがいるのです(『南安曇郡誌』などに書かれています)。
しかし、このお話も、時代が経つにつれて少しばかり間違って伝わってしまったのではないかと思う点があります。
信州では、この晩に食べ物を供えるときのお箸を、葦(あし)の茎を使って「必ず一本は長く、一本は短く」作る決まりになっています。
これも「でんぼ隠し」の記念なのだとされていて、「そのおばあさんは足が不自由で、しかも片足を引きずっていたからだ」と言う人もいれば、「いやいや、お大師様ご自身が生まれつき片足を引きずる足の悪い方だったから、この晩に村々を歩いて回るとき、雪が降って自分の足跡がちょうどよく隠れるので喜ばれたのだ」と言う人もいます。「でえしでんぼの跡隠し」ということわざもあるそうです(『小谷口碑集』)。
越後のほうでも、古くから大師講の小豆粥には、栗の枝で作った「長くて短い」お箸を添えてお供えしていました。
耳の遠い人がそのお箸を自分の耳の穴に当てると、よく聞こえるようになるなどとも言われていました。
そして、この晩に雪が降ると、「跡隠しの雪」と言って、大師様が村から村へ歩いて回られる御御足(おみあし)の足跡を、人に見られないように隠してくださるのだと言い伝えられていたのです(『越後風俗問状答』)。
こうして調べていくと、だんだんと分かってきます。このお話に出てくる大師様は、弘法大師でもなければ、智者大師でもなかったということです。
今でも「山の神様は片足の神様である」と信じている人が、日本にはたくさんいました。
そのため、大きな草履をわざわざ「片方だけ」作って、山の神様に奉納する風習などもあったのです。
真冬のさなかに、山の神様が山から里へと、ときおり降りて来られることもあると言われていて、雪はむしろその神様の足跡を隠すどころか、くっきりと示すものでもありました。
のちに仏教が日本に入ってきてからは、こうした古い神様を信じる人がだんだん少なくなっていき、山の神様はただ子供たちが怖がるだけの存在になり、ついにはすっかり落ちぶれて「お化け」の仲間に入れられてしまいました。ですがもともとは、ギリシャやスカンジナビヤに残る古い尊い神々と同じように、私たちの国の山の神様も、足が一本であり、また目が一つであったのであります。それとこれとは直接は関係ないかもしれませんが、とにかく十一月二十三日の晩に、日本中の村々を巡り歩き、小豆のおかゆでおまつりされていたのは、ただの人間の偉い人ではありませんでした。
それをわたしたちの日頃の言葉で、ただ「だいし様」と呼んでいたのを、漢字を知っている人たちが「弘法大師」のことだと思い込んでしまっただけなのです。
この「だいし」という言葉は、もし漢字をあてはめるならば、「大子」と書くのが本当なのだと思います。
もともとは「おほご」と言って、大きな子、つまり「長男」という意味でしたが、漢字の音で呼ぶようになってからは、だんだんと、神様や尊い方のお子様にしか使わなくなっていき、それも後には「たいし」と言って、ほとんど聖徳太子のことばかりを指すようになってしまいました。
そんな古い言葉が田舎のほうにまだ残っていたために、いつの間にか仏教のお坊さんである「大師」とごちゃ混ぜになってしまったのです。しかし、もともとは神様のお子様という意味ですから、よーく気をつけて見てみると、仏教の大師様らしくないお話ばかりがたくさん見つかるのです。
信州でもずっと南の方にある、竜丘村(たつおかむら)の琴が原(ことのがはら)というところには、「浄元大姉(じょうげんたいし)」と言って、足の悪い神様がまつられています。
その言い伝えられている場所は、なんと花の御所であり、後醍醐天皇の妹御だったのだという説さえありますが、これもまた、「だいし」と「おばあさんの神様」を一緒にして拝んでいたのが、一番はじめの姿だったようです。
この大子様も、旅の途中で足を痛めてとても困られたので、「これからはずっと、この土地の人たちの足の病気を治してあげよう」と仰せられたと言い伝えられており、今でも熱心にお参りする人がいて、そのお礼として草鞋(わらじ)を「片方だけ」お供えすることになっています。
そしてこの地方にも、「ちんば山の神の片足草鞋」ということわざがあるそうです(『伝説の下伊那』長野県下伊那郡竜丘村)。
高く尊い天つ神の御子を、「王子権現(おうじごんげん)」や「若宮児宮(わかみやにのみや)」などと言って、村々にまつっている例はたくさんあります。
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