初級翻訳・海をわたる 第2話

海をわたる

三

「君、電報用紙があったね?」
大鞄の中を片付けているSのそばに行って、Kは言いました。
「ええ――」
「二、三枚くれないか?」
「…………」
そこにあるのをSは取って渡しました。

「本社のTさんに、お礼を一通打っておきたいからね」
こう申し訳のように、何も疑われてもいないのに弁解するような口調で、Kはそのまま座敷の隅にある硯箱や封筒箱などが置かれた紫檀(したん)まがいの机の前に行き、腰を下ろしました。

Kはまず、Tさん宛ての電報を書きました。
「イロイロオセワニナツタコトヲシンシヤス」
と書き、それを傍らに置きました。

後ろを振り返ってみると、Sはまだ大鞄を前にして何かをしていました。
Kは電報用紙をもう一枚取り上げました。
彼は心の躍るのを感じました。

彼は書きました。
「アスゴゴ八ジノキウコウデタテウオソウデマツ」
そして、久しく憧れて旅をしてきた女の父親の名と番地を書き、それを本社のTさん宛ての電報の下にして、ちょうど向こうに来ていた女中を手を鳴らして呼びました。

女中はすぐやってきました。
Kは急いで打ってもらうよう頼んで、それを渡しました。

今夜ここに泊まって、明日の夜の連絡船で向こうへ渡る。明後日の朝にはそこに着く。「魚惣(うおそう)」で待つ。大丈夫だ。それでわかる。ちゃんと大連からその手筈がしてあるのだから――「魚惣」という旅宿もかの女はかつて行ったことがあって知っているのだから――電報が行き次第、すぐ立つことになっているのだから。

こう思って、Kはほっとしました。
これで逢える。長い間憧れ続けてきたかの女に、明後日は逢える! それにしてもKは、どれほど長くこの電報を打つ時の来るのを待ったことでしょうか? その時が来たら、どんなに嬉しいだろうと考えたことでしょうか? 彼はそれを旅のいたるところで繰り返してきました。

時には、すさまじく蒙古の風が吹き荒れる砂漠の中で。
また時には、行っても行っても尽きない長い退屈な汽車の中で。
湯の漲り溢れる温泉場の大理石の浴槽の中で。
ホテルの二人寝の大きいベッドの中で。

いいえ、いかなる時でも――夜でも昼でも、朝でも、汽車の中でも、ホテルの部屋の中でも――それを思わないことはないと言ったほうが適当であるほどでした。
それどころか、そのために、その恋の集中を壊さないために、彼はあらゆる女に――どうにでもできるような女にも触れずにはるばる旅をしてきたのでした。

現に、F町では、大勢の人たちにそれを勧められて、止むを得ずにそうした話まで持ち出して、「その身にはちゃんとそういう異性がついているのだから、現にそこに待っているのだから、そういう心配はしてくれなくていい」と断ってきたのでした。

Kは電報を打ってほっとして立ち上がりました。
すぐSのそばに行って、
「町を少し歩いてみようか?」
「そうですね……」
「何か用があるのかい?」
「いや、別に用ということもありませんけれどね……。ちょっとここをもう少し片付けて……」「もうすぐです」
 しかしKは、そこにじっとしていられないほどの喜びにも似た気持ちを、どうすることもできませんでした。
「じゃあ、一足先に出てるよ」
「どうぞ。すぐあとから僕も行きます」
 Kは静かに長い廊下を通りました。梧桐(あおぎり)の葉がかすかに揺れるのを眺めながら階段の方へ向かうと、右手の部屋に、さきほどの朝鮮美人がいました。額のあたりをくっきりと鮮やかに見せるために、きっちりと結い上げた髪をこちらに向けて、母親らしい女と親しげに話しているのを彼は目にしました。
 Kはその傍らを掠めるようにして下りていきました。

 H館を出ると、通りがずっと続いていました。
 さっき入ってきた時とは違って、成るほどこんな町があったのだなと、Kは思いました。これではいくらか温泉場らしい、と彼は感じたのです。
 ふとその時、一軒の理髪店が目に留まりました。
 青いペンキ塗りと、赤と白のサインポールが目につきました。椅子には誰も座っていないのが見て取れました。Kは中に入っていきました。
「いらっしゃい」
 中年の主人らしい男が出てきて、すぐにかれを椅子の方へと案内しました。
 大きな鏡には髭面が映りました。いくらか旅に疲れた様子で、浅黒く、岩のように頑丈な、こんな顔をして女のことなどを考えているのかしら、と思えるような顔が映っていました。
 鏡というものは不思議なものです。また、皮肉なものでもあります。主観だけではすませず、どこまでも客観的に見せつけずにはおかないものです。ありのままの姿として見せずにはおかないものです。そう思うと、なんだか可笑しくなって、腹の中で笑いました。
 動く鋏につれて、長い髪がバサバサと落ちるのも心地よい気分でした。
 中年の男はやはり主人で、石見(いわみ)の浜田の出身だそうですが、ここに来てからもう十年になるとのことでした。
「そうです、W町からF町にかけては島根県の出身者が多いんですよ。何しろ近いですから。直線距離にしたら七、八里のところすらあるんですからな。それに、この辺りは内地とは少しも変わりません。人気(ひとけ)だってそう悪くはありません。その代わり、うまいこともありませんがな……」
 その男はそう言って笑いました。
 さっぱりしてそこから出てきたのは、四十分ほど経ってからのことでした。Kは化粧品を並べた店や、小料理屋、魚屋、牛や鳥肉の看板を出している家などが両側に並んでいる小さな町を、緩やかな足取りで歩いていきました。

 それにしてもSはどうしたのでしょうか。あのあとですぐやってきて、どこにもKの姿がないことに呆れて、ひと回り町を回って帰っていったのでしょうか。それともまだ用事が片付かないので、あのまま部屋から出ていないのでしょうか。あるいは、ずっと向こうの方まで行ったのでしょうか。
 それはどうでもいいのですが、とにかく少し町を歩いてみよう。のんきな気持ちで歩いてみよう。そんなことを思いながらKが歩を進めていると、遠くの方から、町のずっと向こうの、さらに外れの方から、Sがこちらを向いて歩いてくるのが小さく見えました。
 Kがここにいるのを見つけても、あえて急いで来ようとするでもなく、にこにこ笑いながら、Sは静かにこちらへと近づいてきました。
「どうしたんです?」
「これさ」
 Kは頭を丸めて見せました。
「あ、そうですか。そうとは気づかなかった。あそこの床屋ですね。それじゃあいないはずだ。どうしたのかと思ってあちこち捜し回ったんですよ。たしかに出たに違いないのに、どうしているんだろう。不思議なこともあるものだと思って、ずっと向こうまで行ったんですよ……」
「それは気の毒だった」
「綺麗になりましたね」
 Sは笑いながらじろじろとKの方を見て言いました。
「満鮮の髭面は、内地へのお土産にはなりませんからね」
「そういうわけでもないがね」
「内地に行けば、何でもいいものがありますからなあ」
「悪くひやかすね!」
 Kは笑いながら言いました。

 向こうに行っても別に面白いところがないというので、彼らはそこから引き返してぶらりぶらりと歩きました。

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