初級翻訳・海豹と雲 第5話

北原 白秋

風を祭ろう、
海港のブイに祭ろう。
風を祭ろう、
浴場の旗に祭ろう。
風を祭ろう、
鉄工の腕に祭ろう。
風を祭ろう、
薄衣をまとった女の体に祭ろう。
風を祭ろう、
ありとあらゆる花に祭ろう。

【鋼鉄風景】

神は在る、鉄塔の碍子(がいし)の中に。
神は在る、クレーンの斜めの線の中に。
神は在る、鉄柱の頂点に。
神は在る、鉄橋のカーブの中に。
神は在る、晴れた空と共に。
神は在る、鋼鉄の光の中に。
神は在る、近代の風景と共に。
神は在る、鉄板の響きの中に。
神は在る、不思議な蒸気釜の中に。
神は在る、モーターと一緒に回転する。
神は在る、装甲車と一緒に走る。
神は在る、砲弾と一緒に炸裂する。
神は在る、円形の鋭い刃の中に。
切り裂く音は空さえも削り取る。
神は在る、ダイナモの霊的な音の中に。
神は在る、一瞬で電光を放つ。
神は在る、鉄筋コンクリートの劇場の中に。
神は在る、鉄工のメーデーの中に。
神は在る、車輪のわだちの中に。
響く音は野菜を食らう。
神は在る、果てしない軌道の中に。
神は在る、雷雲に反響する。
神は在る、立体の、キュビズムの中に。表現派の芸術は、都会の風景をぐにゃりと曲げて見せる。
神はそこにいる、颯爽と何かをひっぱる力の中に。
神はそこにいる、美しく磁気を生み出す力の中に。
神はそこにいる、天体そのものが鉄鉱石であるかのように。
神はそこにいる、炎を上げて燃えさかる炉の中に。

【猫の乳】

古風な門よ、ほどほどに。
霧雨が降っている、新しく。
檀(まゆみ)よ、青い「猫の乳」よ、
微塵のように小さな花の、淡い緑色よ。
ここは墓地の裏、夏は朝。
散っておくれ、細やかに、このしっとりとした空気の中へ。

【五月の朝】

台所の外の
朝の光。
白い藤の花が垂れている、
短く。
谷中の天王寺、
十八の数。
まだ住みついていないのか、
私の妻は。
五月よ、塔の
反りかえった屋根を見て。
早くも干している、真っ白な
子どもの服。

【珠数工の夜】

青い月夜の七分どき、
影がまとっている、紺色の影。
ああ、ひたすらに、
珠数を磨く音が響いている。
空には息づく若葉たち。
白く幅広く伸びる墓地の小道。
ああ、かすかに、
珠数を磨く丸い音。
現実ではないのだろうか、蒸し暑い中にも
顔がなまめく石の上の霧。
ああ、ひとすじ、
珠数を磨く窓の明かり。
飛んでいるのはコウモリ、金の縁取り。
月は五重の塔の上。
ああ、ひたすらに、
珠数を磨く人がそこにいる。

【父と母】

樟(くすのき)の若葉は赤に青に、
日陰は椎の木の真っ黒な葉。
ああ、その下を歩く父と母。
五月なかばの午後過ぎは、
湿り気の中に明るい黄金の日差し。
ああ、静けさよ、塔のある空。
谷中の墓地の石畳、
現れたのは散らばる羽虫。
ああ、立ち込める藍色の香り。
父が言う、「いい母よ、
こんなに穏やかな場所がいいね」と。
ああ、墓石、その二つ。
母も笑う、「いい父よ、
本当に扇骨木(かんぼく)の涼しさのようですね」と。
ああ、いい鳩よ、連れ添う鳩よ。
父の垂らした髭は寂しげに、
母の髪には霜が降りていく。
ああ、ねんごろに、老いの影。
桐の紫が、さらに
曇り空に匂う夕暮れ時。
ああ、夕暮れよ、父と母。

【朴と月】

朴(ほお)の木の濃い影を見ると、
三日月が黄色く明るく見える。
花は過ぎて、鳴いているのか、幾夜も、
ホトトギス、
薄墨色の鳥。

【池畔の撮影】
(小石川の植物園にて)

睡蓮の
葉が、水の
池に満ちている。
広々と照らす日差し。
まぶしいよ、
ああ、はつはつと、
花か、白きもの。
昼が過ぎゆく浮かびゆく時。
夏はいま、
空の色を
燻して深くして、
つやつやと潤んでいる。
映っておくれ、
カエルの声も、
黄色に、緑に、
現実味のないレンズの中へ。
子は父の
面影、
何かを求めて、
安らかな笑み。

【夜露】

赤く丸い
朴の木の月、
墓の上に
湿る夜露。

【売卜者(占い師)】

算木(さんぎ)を収めて、
昼顔の
香りが蒸し暑い。
安らかであれ、
十字路の霧よ、
亡くなった魂の
知るも知らぬも。
愛しい子よ、
祝福せよ、足音を、
命の
健やかな揺れを。
紫色の
汽車の煙も
日暮里の
灯りに噴き上がっている。

【天王寺の朝涼】

朴の木に白い花が群れ咲き、
塔が立っている、東の方に。
月は落ちて、吹き払うものは、
間違いなく風は夏のもの。
波立っている、空の朝の涼しさ、
放物線を描いて、小鳥が飛ぶ、飛ぶ。
赤くくすむ扇骨木の生け垣、
刈り取られて、なんとすがすがしいことか。
露はある、石に音を立てて、
それでもここは死後の世界ではない。
愚かなことだ、死んだとか、幽かな世界だとか言うのは。
本当に、現実、生きていることに勝るものはない。
朴の木に白い花が群れ咲き、
鐘が鳴る。
鐘が鳴っている。

【朝ごとに】

私は関わらず、朝ごとに、
ひとり歩く墓地の道、
夏は花樫、樟の若葉、
命が愛おしくて聴きほれる。
私をとがめるな、朝ごとに、
見る目もすがすがしい鉄の柵、
ひとつふたつと新しい墓が
日に増えていくのさえも楽しい。

【墓地】

墓地は嘆きの、愛の園、
また、思い出の樫の森。
墓地は現実の露の原っぱ、
また、死後の世界の苔の土。
墓地は子どもの草の庭、
また、逢い引きの青葉の垣根。
墓地はそよ風がしめっぽく、
また、透き通って明るい光がこぼれる。
墓地は幽かな花だまり、
また、群れ飛ぶ鳥の止まり木。
墓地は薄黄色の石畳、
また、奥深い朴の門。
墓地は銀杏の片かげり、
また、仏の額の白毫(びゃくごう)が濡れる場所。
墓地は供花の色の海、
また、声なき声の網。
墓地は無縁の草のいきれ、
また、ねんごろな水かげろう。
墓地に光るのは虫の羽、
また、手相見の天眼鏡。
墓地の迷い路、間の辻、
また、横の柵、裏の道。
墓地の散歩は爽やかに、
また、行き止まりの石の寂しさ。
墓地にも目立つ世の流行、
また、消え残る江戸の風情。
墓地を通うのは女の靴、
また、行きずりの製図工。
墓地の円屋根、納骨堂、
また、青い塔のつま先。
墓地は息づく霧の胎内、
また、魂の巣の静けさ。
墓地は欠けてゆく月の道、
また、太陽の眼の宿り。
墓地は牛乳屋の朝の時間、
また、チャルメラの夕暮れの時間。
墓地はいい森、いい廊下、
また、なぐさめの道。
墓地はいい庭、わが門辺、
わが客人のためのいい小径。

【蝶】

風に流れる
白い蝶、
陰影は羽の裏の
紫色。
揺れて漂う
白い蝶、
花咲く扇骨木の
すれすれを。
つかず、離れず、
白い蝶、
飛ぶのは無縁の
墓の間。
香りを明るくせよ。
白い蝶、
そぞろに吹き立てる
涼しさを。
飛べよ、たよりなく、
白い蝶、
保て、羽の裏の
藍色の微塵を。【ラヂオ風景】

黄色い月、
花はアオギリ、
  蝶々だ、まるで、あいつらは。
夜だ、まだ、
墓地を通り抜けると、
  下町は光の海だ、ほら。
見ろ、屋根を、
雲も、星の並びも、
  アンテナにぐるりと囲まれている。
やあ、あれだ、
ラヂオの風景、
  ばびぶべぼ、いつもの歌だ。
偽物の宝石、
キスの魚も、メロンも、
  どこの家の子も、耳のお化けみたいだ。

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