初級翻訳・火星兵団 第103話

海野 十三

それも無理のないことで、先生のことはみんなで心から気の毒がらなくてはならない。
「博士、地球とモロー彗星のほうは、そのあとどうなったでしょうか?」
おお、モロー彗星のことか! 先生も千二も、丸木艇を追いかけるのに一生懸命で、モロー彗星のことなんてすっかり忘れていたのだ。
さっきのパーティーが先生の緊張をときほぐし、今まですっかり忘れていた大切なことを、一度に思い出させたのである。
先生がそう口にすると、千二少年もはっと気づいたように、
「あっ、そうだ!
モロー彗星は、もうすぐ地球にぶつかるところでしたね。
大変だ、いったいどうなったんでしょう?」
と言って、先生と博士の顔を見くらべた。
「ふむ、モロー彗星のことか」
博士は、なにか考え込むように顔をあげて、天井の隅をじっと見つめた。
「わしの記憶にまちがいがなければ……」
蟻田博士は大きく息を吸いこんで、
「モロー彗星が地球にぶつかるのは、あと二十四時間後のことだ」
と答えて、新田先生と千二の顔を見まわした。
「えっ、あと二十四時間後ですか!
もうそんなにせまっていたのですか。
いやあ、私たちは丸木艇と戦うことに夢中になっていて、時間のたつこともすっかり忘れていました」
「おそらく、それにまちがいはない。
くわしいことは計算表を見てもいいし、望遠鏡で測ってみてもいい」
すると千二が、
「博士、私たちが火星に着くのと、モロー彗星が地球にぶつかるのと、どっちが先ですか?」
とたずねた。
「さあ、それはだいたい同じくらいの時刻だろう。
いや、火星に着くほうが、ほんのすこし早いかもしれないな」
「じゃあ、ここから地球へ引き返したら、モロー彗星がぶつかる前に地球へもどれますか?」
博士は、首を横にふった。
「あ、もう間に合わないのですか……!」
「そういうことじゃ。もうおそい。
地球のことは、あきらめなければならん」
「そんな……。
もう、どうしても地球に住んでいる人たちを助けることはできないのですか?」
「どうしようもない。とても残念だがね」
「ぼくだけが大空艇に乗るんじゃなかったなあ……」
千二はそう言って、ガクリとうつむいた。
少年はきっと、地球にいるお父さんのことを思い出したのだろう。
「博士!」
新田先生は博士の腕をつかんで、
「ということは、あと二十四時間後には、生き残った地球の人間は、わたしたちこの三人だけになってしまうということなのですか?」
と、真剣な顔で言った。
「そのとおりだ。
我々三人は、地球の最後の生き残りになってしまうかもしれないのだよ」
蟻田博士は、新田先生の問いにそう答えた。
「はあーっ、そうですか……」
「ふうん……」
千二少年は、先生と顔を見合わせて、大きなためいきをついた。
あんなに大勢いた地球の人間が、蟻田博士と新田先生と千二少年のたった三人になってしまうとは、なんと寂しいことだろうか。
いや、寂しいなどと言っている場合ではなく、これはとてつもなく大変な一大事なのである。
地球が生まれてから二十億年。
そして人間の先祖があらわれてから八十万年。
この輝かしい歴史を持つ地球がくだけて、たった三人の人間しか生き残らないとしたら……一体どうと言っていいか分からないが、残された三人の肩には、とてつもない重荷がのしかかることになる。
そうではないだろうか?
生きているうちに、この三人は二十億年におよぶ地球の歴史を書き残しておかなければならないのだ。
三人が死んでしまったら、地球のことなど誰も知る者がいなくなってしまう。
地球の歴史を最初から最後まで書くなんて、そんなこと、とても三人の力ではできそうにない。
ああ、地球はついに、空中で火花が消えていくように、消え去ってしまうのだろうか?
蟻田博士はなぜか、昔からこの地球の滅亡ということについてあまり気にかけていない様子だったが、新田先生はそうはいかなかった。
先生は千二を促して、地球がよく見える下の部屋の窓のところへと歩いていった。
「あっ、見えるぞ。あれが地球だ。
もうお月さまよりも小さくなってしまった。
そして、あっちに金のほうきを斜めに倒したように光っているのが、にくらしいモロー彗星だ」
千二も、まっくらな宇宙のなかで気味悪くにらみ合っている二つの星をながめて、ぞっと背すじが寒くなった。
「あと二十四時間で、あの美しい地球が二度と見られなくなってしまうのか……」
窓のところで千二少年の手をぎゅっとにぎりながらたたずむ新田先生の胸には、こみ上げてくる悲しみが広がった。
今まで気を紛らわせて忘れたり、がまんしたりしていたものが、ここで一気に先生の心を突き刺したのだ。
千二もまた、さっきから寂しさのなかに閉じ込められていた。
しかし、ここで新田先生がひどく悲しんでいる姿を見て、少年は「自分までめそめそしていてはいけない」とぐっとこらえたのだった。そうして、出来るなら先生をなぐさめてさしあげたい。
もっと元気にしてあげたいと思ったのである。
「ねえ、先生。
地球のことは、もう、僕たちの力でどうにもならないんですから、あきらめましょうよ。
先生のお父さんやお母さんや、それから、親戚の方もお友だちも、たくさんいらっしゃるのでしょうが、もう、こうなっては、しかたがないではありませんか」
「うむ。
――千二君に慰めてもらおうとは、思っていなかったよ」
と、新田先生は、顔をあげて、のどを、ごくりと鳴らした。
「いや、もう、悲しまないよ。
今、もう地球のために悲しみじまいだと思って、最後の悲しみを味わっただけさ」
と、先生は、涙をはらい、
「しかし、今にして私たちは、日頃勉強の足りなかったことを、しみじみと感じる。
地球の上に、蟻田博士のような学者がもう一万人――いや一千人でも五百人でもいい、それだけの学者がそろっていて、そうして思う研究がやれたら、わが地球は、火星に襲撃されたり、モロー彗星につきあたられたりしないで、よかったんだ。
きっと、それを防ぐ手があったに違いない」
あと二十四時間後に崩壊し去るであろうところの地球の姿を、新田先生と千二少年とは、しばし無言のまま眺めつくした。
あの美しいまん丸なすがたも、今しばらくのことである。
また、今この大空艇からは、光る地球の面に、アジア大陸の一部が、ぼんやりとした輪郭を雲間から見せているが、あのあたりに、祖国日本の国があるのだ。
それも、もう間もなく見られなくなるのである。
千二少年は、新田先生をはげますため強いことを言ったが、こうして、最期に近い地球の顔を見ていると、やっぱり胸がふさがり、あつい涙がこみあげてくる。
(お父さん!)
と、千二は心の中で呼んでみた。
(お父さんは、今どうしているだろうなあ。
お父さんは、地球がこわれることを知っているのだろうか。
それを知っているとしたら、今、どんな気持でいるだろうか。
もしや、『千二や、千二や』と、ぼくの名を呼びつづけているのではないかしらん)
千二もやはり人の子であった。
強くなくてはいけないと思いながらも、やはり父親とのわかれは、つらかった。
なんとかして、彼の父親を助ける工夫はないものか。
いや、地球人類の命をすくう法はないものであろうか。

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