初級翻訳・灰色の巨人 第21話

江戸川 乱歩

そこは、両がわに大きな屋敷のコンクリート塀がつづいている寂しい通りで、日が暮れるとめったに人も通らないような場所でしたが、その暗闇の中を向こうから、変にふらふらとした歩き方でひとりの男が近づいてきました。
電柱のかげの見張りの男は、その男が園井さんではないかとじっと目をこらしましたが、よく見ると園井さんとは似ても似つかない、みすぼらしい、乞食のような男でした。
それが酒に酔っているらしく、口の中で何かブツブツ言いながら、千鳥足で歩いてくるのです。
そして電柱の前まで来ると、何かつまずいて、よろよろと電柱のかげによろめいてきました。
そこに隠れていた男は急いで身をよけましたが、間に合いません。
酔っぱらいが転びそうになって何かにつかまろうと差し出した手が、男の服をつかんでしまったのです。
男は「うるさいっ」と言わんばかりに、片手で酔っぱらいを払いのけようとしました。
それが勢いあまって殴りつけたように感じられたものですから、酔っぱらいは黙っていません。
「おいおい、何の恨みがあって俺を殴りやがった。
さあ、許さねえぞ。
喧嘩なら相手になってやらあ。
さあ、出てこいっ」
見張りの男はとんだやつにつかまったと思いましたが、こっちも喧嘩好きの悪党ですから、たちまち取っ組み合いが始まってしまいました。
上になり下になり大格闘です。
するとそのとき、通りの向こうから真っ暗な影ぼうしのようなものがちょろちょろと走ってきて、そこにとまっている自動車の後ろに近づき、車体の下にもぐるようにして何かやっていたかと思うと、すぐにそこから這いだして、またちょろちょろと影のように向こうへ走り去ってしまいました。
それは子どもか一寸法師みたいにひどく小さなやつでした。
ちょうどそのとき、見張りの男は酔っぱらいと取っ組み合っていたので、まったくそれに気づきませんでした。
また、自動車の中のふたりも、向こうの取っ組み合いを助けにいこうかどうしようかとそちらばかり見ていたので、やっぱり小さな影ぼうしのことは少しも知らなかったのです。
小さな影ぼうしが走り去ってしまうと、いままで取っ組み合っていた酔っぱらいが突然さっと身をひいて、そのまま逃げるように走りだし、見張りの男があっけにとられているうちに、向こうの闇の中へ姿を消してしまいました。
あの酔っぱらいと小さな影ぼうしは、仲間だったのでしょうか。
影ぼうしが自動車の下にもぐりこんで何かやるあいだ、見張りの男の注意をそらしておくために、酔っぱらいのまねをして喧嘩をしかけたのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、あの酔っぱらいと影ぼうしは一体何者だったのでしょう。
それはともかく、いっぽう園井さんは約束の八時になると、「にじの宝冠」を明智の置いていった黒塗りの箱に入れてそれを脇にかかえ、門の前から東へ百メートルほど歩いていきますと、そこにヘッドライトを消した自動車がとまっていました。
それはさっき酔っぱらいが喧嘩をした少しあとのことです。
園井さんが自動車に近づくと、ヘッドライトがパッパッと二、三度ついたり消えたりしました。
これが灰色の巨人の車だという合図でした。
そして自動車のドアがスーッと開き、中にいた男が手を出して園井さんを引っ張り込むようにしました。
いまさら逃げるわけにもいきませんので、引かれるまま中へ入りますとドアが閉まり、自動車は走りだしえました。
「ちょっと窮屈だが、目かくしをさせてもらいますよ」
灰色の巨人の手下らしい男がそう言って、黒い手ぬぐいのようなもので園井さんの目のところをしばってしまいました。
園井さんに行き先をさとられないための用心です。
その自動車がどこかへ走り去ってしまって五分ほどすると、後ろの方からまた別の自動車がやってきました。
そして、灰色の巨人の自動車がとまっていたへんでピッタリ停車しました。
見ると、その運転席には明智探偵がハンドルをにぎっています。
後ろの客席には小林少年と、大きなシェパードの犬がのっていました。
明智は車をとめると注意深くあたりを見まわして、怪しいものがいないことをたしかめてから、自動車の外に出ました。
それを見ると、小林少年もシェパードの綱を引いて車からおりました。
「シャーロック、しっかりやってくれよ。
今夜はおまえが主人公だ。
うまくいくかいかないか、おまえのはなしだいなんだぞ」明智探偵は犬の頭をポンとたたいて、やさしく言い聞かせました。
シャーロックというのは、このシェパードの名前です。
明智が知り合いの犬好きのひとから借りてきたもので、警察の中でもよく知られている有名な探偵犬なのです。
だから名前も、あの名探偵シャーロック・ホームズにあやかって、「シャーロック」とつけられていました。

「小林くん、あれを」
明智がそう言うと、小林少年は自動車の床においてあった、黒いドロドロしたもののついた布を指先でつまみ、シャーロックの鼻の前に持って行きました。
ツンと、コールタールの強いにおいがただよいます。
シャーロックはそのコールタールがしみた布を、鼻をクンクンと鳴らしながらしばらくかいでいましたが、「もうわかりました」と言わんばかりに、プイと首をそむけました。それを合図にして、小林くんはその布を元の自動車の中へもどしました。
それから、犬の首につないだ綱をきゅっとにぎって、あたりの地面をにおわせました。あちこち歩き回るうちに、シャーロックはさっきの布と同じにおいをかぎつけたようで、急にはりきりだし、鼻を地面すれすれにつけたまま、走り出そうとしました。
綱がピンと張りつめ、その端をにぎっている小林くんは、油断するとずるずると引きずられてしまいそうなほどの勢いです。

「よし、綱を車の前にしばりつけたまえ」
明智の指示で、小林少年は自動車の前に犬の綱をしっかりとくくりつけました。
そうしてからふたりは車の中にもどり、明智がハンドルをにぎり、小林くんは客席においてあった黒い四角いふろしき包みを、たいせつそうにひざのうえに乗せました。
明智も小林少年も、まっ黒なつめえりの服を着て、黒いくつ下に、黒いくつをはいていました。
顔と手のエプロンのような肌のほかは、全身がまっ黒なのです。
ふたりは、どうしてそんなまっ黒な服を着ていたのでしょう?
また、小林くんがひざの上に乗せている、四角い黒いふろしき包みは、いったい何だったのでしょうか?
読者のみんななら、きっともうおわかりですよね。

探偵犬シャーロックは、地面に鼻をピタッとくっつけて、ぐんぐん前に進もうとあせっています。
運転席にすわった明智は、ゆっくりと自動車を動かしました。
シャーロックはよろこんで走り出します。
地面のにおいをかいで、どこまでも、どこまでも、そのあとを追いかけていくのです。
そのにおいは、さっき小林少年にかがされたコールタールと、同じにおいにちがいありません。

では、どうしてそんなにおいが地面についているのでしょうか?
それは、「人間豹」の事件のときに明智探偵が発明した、「黒い糸」という、自動車のあとをつけるためのとっておきの作戦でした。
大きなブリキ缶にコールタールをいっぱい入れて、その缶のそこに、針でごく小さな穴をあけておくのです。

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