初級翻訳・竜潭譚 第5話

泉 鏡花

今となっては我を忘れ、声を張り上げて「母上、母上」と呼び、叫び、体を揺り動かし、押し動かしたりしましたが、何の反応もありません。ひたすら泣きに泣いているうちに、いつの間にか眠ってしまったようです。

顔が温かく、胸を押さえられるような感覚で目が覚めました。
空は青く晴れ渡り、日差しはまぶしく、木も草もテラテラと光るほどの暑さです。
私は、昨晩見た顔が赤いあの老夫の背中に負われて、ある山道を歩いていました。
後ろからは、あの美しい人がついて来てくださっています。
これは、約束通りに家まで送ってくださっているのだなと推測するばかりです。私の胸の内をすべて見透かしているかのように知っていらっしゃるので、別れが惜しいとか、この状況が不思議だとか、口に出して言ったところで益はありません。
教えるべきことなら、あちらから先に切り出してくださるはずです。
家に帰るのが私の運命ならば、無理に留まりたいと願ったところでどうなるものでもありません。そうなるべき理由があるからこそなのだと思い、大人しく、何も言わずに歩いていきました。

断崖が左右にそびえ、水滴の音がする場所がありました。
雑草が高く伸びた小道がありました。
松や杉の木々の間を行く場所もありました。
聞いたこともない鳥が鳴いていました。
茶色の獣がいて、時折茂みに飛び込んでいました。
踏み分け道というほどではありませんでしたが、去年の落ち葉が道を埋め尽くしていて、人が多く通る場所とも見えませんでした。
おじは腰に一挺の斧を差しています。
いつものように、のしのしと歩きながら、茨などが生い茂って衣の袖をさえぎるような場所に出れば、サクサクと切り払って、美しい人を通らせてあげていました。
おかげで山道も苦にならず、高い塗下駄の姿が見え隠れし、長い裾をさばきながら歩いてこられました。

こうして大沼の岸に出ました。
水は満々と藍色をたたえ、まぶしい日差しもこの森には届かず、水面を渡る風は冷たく、颯々(さっさつ)と音を立てています。
おじはここに来て、そっと私を降ろしました。
私が駆け寄ると、手を取って立ち上がりながら肩を抱いてくださいました。着物の袖が左右から長く私の肩にかかります。
葦(あし)の間の小舟の綱を解き、老夫は私を抱えて乗せました。
「一緒でなければ嫌だ」と、しばらくぐずったのですが、老夫は「めまいがするから」と言って乗ろうとはせず、それならば仕方ないと、棹を立てました。
船は出ました。
わっと泣いて立ち上がったものの、よろめいて後ろに倒れました。
船というものには初めて乗りました。
水を切るごとに目がくらむのか、背後にいらっしゃると思っていた人の大きな環に囲まれて、行く先の岸辺にいらっしゃいました。
どのようにして渡られたのだろうと思っていると、もう左手の岸辺に見えました。
見る間に右手の岸辺に回り、やがて元の後ろに立っていらっしゃいました。
箕(み)の形をした大きな沼は、岸辺の葦と、松の木と、立て札と、その傍らにいる美しい人と共に、緩やかな環を描いて回転し、最初はゆっくり回っていましたが、後になるほど急になり、速くなり、くるくるくると次第に細かく回り続けました。私の顔から一尺(約30センチ)ほど離れた、すぐ近くの松の木にすがりついて見えていらっしゃったのに、そう思ったのも束の間、目の前にあの美しい顔の、背の高い姿がニッコリと艶やかに微笑んでいらっしゃいましたが、その後は見えなくなりました。
葦が繁り、背丈よりも高い岸辺に、船はトントンと突き当たりました。

ふるさと

おじは私を助けて船から降ろしました。
またその背中を向けました。
「泣くでない、泣くでない。もうじきに坊さまの家だ」と慰めてくれました。
悲しさはそれだけではないので、言ってもどうにもならずただ泣いていましたが、次第に体の疲れを感じて、手も足も綿のように脱力させられるまま、肩に負われて、顔を垂れて連れられていきました。
見覚えのある板塀のあたりに来て、日がやや暮れかかる頃、老夫は私を抱き下ろして、溝の縁に立たせ、ニコニコと笑いながら、丁寧に会釈しました。
「おとなしくしていらっしゃい。はい。」
そう言い捨てて、どこへ行くのか去っていきました。
別れは寂しかったのですが、追いかける力もなく見送りました。
あてもなく歩き始めると、頭がフラフラとして足が重く、歩くのにも苦労します。前に行く人も、後ろから来る人も皆見知った顔なのに、誰も構おうとはせず行き来しています。
それでも何か言いたげに私の顔を見ながら行く人たちが、冷ややかに嘲笑うかのように憎らしく、腹が立ちます。
面白くない町だと思い、足は知らず知らずのうちに向き直り、とぼとぼとまた山がある方へ歩き出しました。
けたたましい足音がして、鷲掴みに襟を掴む者がありました。
危ないと思い振り返ると、わが家の後見人である奈四郎という力の強い叔父が、凄まじい形相で、
「つまみ出されろ、どこをほっつき歩いているんだ!」と怒鳴りながら、引き立てていきました。また庭に引き出されて水を浴びせられそうになったので、泣き叫んで必死に振り払おうとしましたが、押さえていた手は緩められません。
「しっかりしろ。
おい。」
そう言って、目がくらむほど背中を叩き、宙に吊り上げられながら、私は家へと連れ戻されました。
騒ぎ立てる召使いたちを叱りつけて細引きを持ってこさせ、しっかりと両手を縛り上げると、家の奥まった三畳の暗い小部屋に引き立てて行き、そのまま柱に縛り付けました。
「近くへ寄れ、食い殺してやる」と心の中で思うばかりで、歯ぎしりをして睨みつけていると、私の目の色がおかしくなっているのか、吊り上がった目つきを見た人たちは「憑き物(つきもの)の仕業だ」と言って、近寄ってきては口々に罵るのが無念でなりません。
表の方が騒がしくなり、どこかへ出かけていた姉上が帰ってきたようです。襖をいくつもパタパタと開けて、すぐさまここへやってきました。
叔父は部屋の外で姉上を遮って迎え、
「まあ、ようやく取り返したが、縄を解いてはならんぞ。
もう目が血走っていて、隙があれば駆け出してしまう。
魔物どもが連れ去ろうとしているのだからな」
と厳しく言いました。
その言葉は、よく私の心を言い当てています。その通り、隙さえあれば、どうしてこんな所に留まってなどいられるでしょうか。
「ああ……」とだけ答えて、姉上は転がり込むように部屋に入ってきて、私にぎゅっと抱きついてきました。
姉上は何も言わずにさめざめと泣いておられます。その情け深い手に抱かれ、抱きしめられた私の胸は、締め付けられるような思いでした。
姉上の膝に臥せっている間に、医者がやってきて私の脈を診たりしました。叔父は医者とともにあちらへ去っていきました。
「ちさや、どうぞ気を確かにもっておくれ。
もう姉様はどうしたらいいのか……。お前、私だよ。姉さんだよ。ねえ、わかるだろう、私だよ」
と、姉上は私の顔をじっと見守りながら、涙をこぼしています。その心を安心させようと、無理をして顔をこわばらせ、ニッコリと笑って見せました。
「おお、薄気味が悪いねえ」
と、そばにいた奈四郎の妻が呟いて身震いしました。

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