騎士らしいひげが、あごのまわりにちぢれていましたが、その男の目には涙がたまっていました。
それもそのはず、人々から口笛で野次られて、舞台を引き下がってきたばかりだったのです。
もっとも、野次られても仕方がありません。
あわれな男です! 才能のない者は、芸術の世界では許されるわけにはいかないのです。
この男は物事を深く感じもしましたし、感激をもって芸術を愛しもしました。
けれども、芸術のほうではこの男を愛してくれませんでした。
舞台監督の鳴らすベルが鳴り響きました。
『大胆に勇気凜然と主人公登場』と役割書には書いてありました。この男は、いま自分をあざけり笑った見物人の前に出なければならなかったのです。
この芝居が終わったとき、わたしはひとりの男がマントにくるまって、階段をこっそり降りていくのを見ました。
それはほかならぬ、さんざんにやっつけられたその晩の騎士でした。
道具方の男たちは、ひそひそ話し合っていました。
わたしはこの罪人のあとについて、この男の家の部屋までのぼっていきました。
首をつるのは見苦しい死に方だ。
そうかといって、毒薬はいつも手もとにあるわけではない。
わたしはこの男がその両方のことを考えていたのを知っています。
わたしはこの男が青白い顔を鏡に映してみて、それから目を半ば閉じるのを見ました。
こうして、死体となってからもきれいに見えるかどうかを試していたのでした。
人間は非常な不幸に陥っても、極度に見栄を張ることがあるものです。
この男は死を考えました。
自殺を考えました。
そして、自分自身のために泣いたように思います。
激しく泣きました。
人間は思い切り泣きつくしてしまうと、自殺などはしないものです。
そのときから、まる一年たちました。
とある小さな劇場で、みじめな旅まわりの一座が喜劇を上演しました。
わたしはふたたびあの見覚えのある顔を、化粧した頬とちぢれたひげとを見ました。
この男はまたわたしを見上げて微笑しました。
けれども一分とはたたないうちに、口笛で野次られて舞台から追い出されてきたのでした。
みすぼらしい劇場で、なさけない見物人のために野次られてきたのです!
今夜、一台のみすぼらしい葬儀車が町の門から出ていきました。
後にはひとりの人もついてはいきませんでした。
それは自殺者だったのです。
口笛で舞台から追い出された、あの化粧をしたわれわれの主人公だったのです。
車を走らせている御者がただひとりそばにいるだけで、ほかにはだれもついていませんでした。
月のほかにはだれも。
墓地の塀の近くの片隅に、自殺者は埋められました。
そこには、やがてイラクサがはびこることでしょう。
墓掘りの男は、ほかの墓から抜き取ったイバラや雑草を、そこに投げ捨てることでしょう」
第二十夜
「ローマから、わたしは来ました」と、月が言いました。
「あの都のまん中にある七つの丘のひとつに、皇帝宮の廃墟があります。
野生のイチジクが壁の裂け目から生え出て、広い灰緑色の葉で壁の素肌をおおっています。
砂利の積み重なったあいだで、ロバが緑の月桂樹の垣の上を歩いて、やせたアザミを喜んで食べています。
かつては、ここからローマの鷲たちが飛び出して、『来た、見た、勝った』と言ったものです。
それがいまでは、壊れたふたつの大理石の円柱のあいだに、粘土でこしらえた小さなみすぼらしい家を通って、入り口がついているのです。
ブドウの蔓(つる)が傾いた窓の上に、葬式の花輪のようにまつわり下がっています。
ひとりの老婆が小さい孫娘といっしょにそこに住んでいて、いまこの皇帝宮を支配しています。
そしてよそから来る人たちに、ここに埋もれている宝を見せているのです。
りっぱな玉座の間には、ただ裸の壁が残っているだけで、黒い糸杉がむかし玉座のあったところをその長い影でさし示しています。
土が壊れた床の上に、うず高く積もっています。今はこの皇帝宮の娘である小さな少女が、夕べの鐘が鳴り響く頃、よくそこの低い小さな椅子に腰かけています。
すぐそばにある扉の鍵穴を、この子は露台(テラス)と呼んでいます。
その穴からのぞくと、ローマの半分を、聖ペテロ寺院の大きな円屋根までも見わたすことができるのです。
今夜も、そこはいつものように静かでした。
そして下のほうに、わたしの輝く光をいっぱいに受けて、この小さな少女が出てきました。
頭の上には水のはいった古代風の粘土のかめをのせていました。
見ればはだしで、短いスカートも、小さいシュミーズの袖も切れていました。
わたしはその子の美しいまるい肩と、黒い瞳と、まっ黒なつやつやした髪の毛にキスをしてやりました。
少女は家の前の階段をのぼってきました。
階段は急で、石壁のかけらやこわれた円柱の頭などでできていました。
五色のトカゲがびっくりして少女の足もとをかけて行きましたが、少女はすこしも驚きませんでした。
そして早くも手をのばして、戸の呼びりんを鳴らそうとしました。
ウサギの前足が一つ、紐にゆわえつけられてさがっていました。
これがいまの皇帝宮の、呼びりんの引手なのです。
少女はちょっと手をとめました。
何を考えたのでしょうか。
きっと、あの下の礼拝堂にある、金と銀との着物をきた、美しい子供姿のイエスのことでも考えていたのでしょう。
いま礼拝堂では、銀のランプが輝き、小さいお友だちがこの子もよく知っている歌をうたいはじめていました。
でも、ほんとうに何を考えていたのか、わたしにはわかりません。
少女はまた動きました。
そして、何かにつまずきました。
粘土のかめが頭から落ちて、溝の掘れている大理石の敷石の上で二つにくだけてしまいました。
少女はわっと泣きだしました。
皇帝宮の美しい娘は、みすぼらしいこわれた粘土のかめのために泣きました。
はだしのままそこに立って、泣いていました。
もう皇帝宮の呼びりんの引手の紐を引くだけの元気もありませんでした。
第二十一夜
二週間以上も月は出ませんでしたが、いままたわたしは月を見ました。
ゆるやかにのぼって行く雲の上に、月はまるく明るく輝いていました。
月がわたしに話してくれたことをお聞きください。
「アフリカのフェザン地方のある町から、わたしは隊商(キャラバン)の後について行きました。
砂漠の手前にある岩塩平原の一つで、隊商は立ちどまりました。
そこは氷の表面のようにきらきら光っていて、わずかのところだけ軽い流砂でおおわれていました。
いちばん年上の男は腰帯に水筒を下げ、頭のそばにはパン種のはいらないパンをいれた袋をもっていましたが、この男が杖で砂の上に正方形をえがいて、その中にコーランの中の言葉を二つ三つ書きました。
隊商はみんな、この聖められたところを通って進んで行きました。
太陽の子であるひとりの若い商人が、物思いにふけりながら、荒い鼻息をたてている白い馬に乗っていました。
この男が太陽の子であることは、その眼と美しい姿とで、わたしにはすぐわかりました。
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