初級翻訳・良寛物語 手毬と鉢の子 第6話

新美 南吉

お母さんには、もうかける言葉がありませんでした。自分も一緒に泣きながら、やさしく栄蔵の背中をさすってあげるだけでした。

三 敵討(かたきうち)の話

「よし、それじゃ今日は、一つお話を聞かせてあげよう」
と、年とったお坊さんが言いました。
広い境内を掃くのを、栄蔵や金ちゃんが手伝ってあげると、このお坊さんは喜んで、いつも檀家さんから頂いた饅頭や落雁をくれるのでした。
しかし今日は、栄蔵と金ちゃんが汗ばむほど一生懸命にお掃除を手伝ったのに、お菓子をくれるとは言わずに、お話をしてくれるというのです。
「なんだ、つまらない」という顔を金ちゃんがしました。
栄蔵もどちらかといえば、お饅頭の方が良かったのです。
なぜなら、お坊さんのお話というのは、この世で嘘をつくと、あの世で閻魔(えんま)様に舌を釘抜きで引っこ抜かれるとか、この世で猫や犬や鳥なんかを殺すと、あの世で血の池地獄に落とされて苦しめられるといった、夜ひとりで思い出すとトイレに行くのが怖くなるような話が多かったからです。
けれど、話なんて聞きたくありませんと断ると、いかにもお饅頭が欲しくて掃除を手伝ったのだと思われて癪(しゃく)なので、二人は大公孫樹(おおいちょう)の根元に腰を下ろして足を投げ出しているお坊さんの前に、面白くなさそうな顔をして突っ立っていました。
秋の陽射しは温かく和らいでいて、あちらの水盤に水を飲みに来る蜂が、金色の糸を引いたように光っていました。
そこでお坊さんは話し始めました。
その話というのは、こういうものです。

昔、ひとりの旅人が旅をしていました。
その人は、ひとりぼっちで旅をしていました。雨が降っても風が吹いても、旅を続けていました。
昼間は歩き続け、夜は辻堂の中や、家の軒先、藁(わら)積みの影で眠りました。まるで空を流れる雲のように、あてもなく旅をしていったのです。
お腹が空くと、悪いこととは知りながら、よその柿の実をもいだり、よその畑の芋を掘ったりしてお腹を満たしました。
もっと悪いことには、番人のいない水車小屋からよそのお米をかき出して、ご飯を炊いたりしました。
彼は乞食(こじき)のようにボロボロの着物を着て、手足は垢と埃と日焼けのために黒ずんでいました。
子供たちは彼を見ると石を投げようとしました。しかし、彼の目の色が鋭かったので、振り上げた腕をおろしてしまいました。
渡し守は、彼が渡し舟に乗るのを拒もうとしました。しかし、彼の腰に差している刀が恐ろしかったので、黙って向こう岸へ渡してやりました。
彼はくたびれると草を敷いて休み、喉が渇くと岩の下の清水をすくって飲みました。
彼はそうして、果てしなく旅を続けていきました。

なぜその人は、そんな旅をしていたのでしょうか。
それは、こういう理由です。
その人には以前、兄さんがいました。兄さんは笛の名人だったので、殿様にとても愛されていました。
しかしそこへ、別の笛の名人が現れました。そして、その別の笛名人の方が、ずっと上手に笛を吹いたのです。
そこで殿様の愛は、別の笛名人のほうへ移ってしまいました。
兄さんは、その笛の名人をひどく恨みました。
ある月の美しい晩、兄さんはその笛の名人を待ち伏せて殺そうとしました。
二人は刀を抜いて戦いました。しかし反対に、兄さんの方が殺されてしまったのです。
そして別の笛の名人は、どこかへ行方をくらませてしまいました。
武士の家のしきたりでは、兄さんが殺されると、弟が兄さんの仇敵(かたき)を討たねばならないことになっていました。
そういうわけで、その弟は仇敵を討つための旅をしていたのです。
しかし、仇敵がどこで何をしているのかは分かりませんでした。
日本は広くて村や町はたくさんあり、人間もたくさん住んでいました。
大勢の人の中から一人の仇敵を探し出すのは、骨の折れる仕事でした。
八年も九年も、彼は探しまわっていました。
ある年の秋のある日、その武士は尋ね尋ねて、ついに京都へとやって来ました。
京都は大きな都で、道を往き来する人がたくさんいました。
「この大勢の人の中に、もしかすると探している仇敵がいるかもしれない」
とその武士は思ったのでした。そこで武士は、大通りに面した宿屋に泊まりました。
そして二階の窓から、通りを眺めていました。
ちょうど今日のような、秋の陽ざしが静かな日で、武士が見下ろす都の大通りには、行き交う人々のあいだを、黄色い蝶々がひらひらと舞っていました。
ふと武士は、首のあたりが痒くなったので、何気なく手をまわしてそこを掻くと、ぽろりと板の上に落ちたものがありました。
米粒のような小さなもので、細い細い足が生えていて、陽のあたる方へうじうじと這っていきます。
それはシラミでした。
武士はすぐに爪を立てて潰そうとしましたが、ふと思い直して手のひらに拾い上げました。
しみじみとシラミを見つめていると、これまで過ごしてきた旅の十年間が思い出されました。
もとは清潔な着物を着て、よい暮らしをしていました。
それが、兄さんがつまらない心を起こして返り討ちにあってからというもの、落ちぶれていく一方でした。
風の中の落ち葉のように、あちらへ舞い、こちらへ転がりしているうちに、旅費もだんだんなくなり、ひどい生き方にまで落ちてきてしまいました。
いつのまにか、こんなシラミにさえ親しみを感じるようになってしまったのです。
さて、この生活はいつ終わるのだろうか。
仇敵にはいつ巡り会えるのだろうか。
仇敵に出会うまで、これから先何年、雨や風の中を歩き回るのだろうか。
年老いて、腰が曲がり、髪が真っ白になるまで歩き続けなければならないのだろうか。
一体、これが人生というものなのか。
人生とは、そんなものなのだろうか……。
武士はこうして考えていても仕方がなかったので、手のひらのシラミを始末することにしました。
小刀を抜いて、柱の一角を小さくえぐり、穴をあけました。
そしてその中にシラミを入れると、削りとった木屑で穴をふさいでおいたのです。

ここまで話すと、お坊さんは息をつくためにちょっと休んだ。
金ちゃんは、話を熱心に聞いてはいなかった。
話などは退屈なものと決めていたからだ。
話は早く終われば終わるほどよいと思っていた。
そこでお坊さんがちょっと休むと、もうその話は終わったものと早合点して、「あはあ」と、つまらない話を聞かされた少年がよく言う言葉を発してしまった。
しかし、栄蔵は深くその話に引き込まれていた。
それは、いつもお坊さんが聞かせてくれる閻魔様や地獄の話とは違う。
この話の中には、何か心を惹きつけるものがある。
栄蔵はもっと話の先が聞きたかった。
そして、この話がずっと長くて、なかなか終わらなければよいと思った。
話の好きな少年は、話が早く終わることを好まない。
話が終わってしまっても、それから先はどうなったか聞きたがるほどである。
そして大人が聞かせてくれないときは、自分で想像していろいろと考えてみるほどである。

さて、お坊さんは話を続けた。
その武士は京都にしばらく留まって仇敵を探したけれども、仇敵はやはり見つかりませんでした。
そこでまた田舎へと行きました。
一年のあいだ、田舎の村々を巡り歩きました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました