それくらいのことを知らなくてどうするんだよ!」
と、浩二は大きく出た。
「まあ!
やっぱり賢いわね」
「本当に頭がいいのね。
浩ちゃんは何年生まれ? サル年?」
と、千代子と秋子さんはすっかり感心してしまった。
世界は平和そのものだ。
小学校の低学年や中学年の子供たちは、半分お伽話の世界に住んでいる。
そう考えると、思い当たるフシがいくつかある。
千代子はこないだ僕の万年筆をいじってペン先を傷めてしまった時、
「また新しく買えばいいじゃないの!」
と言って、まったく平然としていた。
試しに、
「お金はどうするの?」
と聞いてみたら、
「お母さんにもらいなさいよ。
お母さんはたくさん持っているんだから」
と教えてくれたが、彼女はお母さんが銀行へ行けばいくらでもお金をもらえるものと本気で信じているのだ。
実は僕も、ほんつい最近まで小学生と同じような考え方でいた。
少なくとも、大人になりさえすればどうにかなるのだろうくらいに考えていたのだ。
生活の大変さなど頭の片隅にも置かず、たった二円五十銭を大金だと思っていられた時代というのは、本当になんとも尊いものだ。
まさに欲のない聖人君子のような心境である。
それなのに、今の僕にはすっかり欲が出てきてしまった。
将来自分は何になればいいのだろうかと、これからの生活のことにすっかり思い悩んでいる。
もちろん、親の財産を当てにする気なんて毛頭ないけれど、お祖父さんが陸軍の古い軍人で、お父さんが新聞記者となれば、我が家が決して金持ちではないことくらいよく分かっている。
お祖父さんが日清・日露の両戦争で大きな手柄を立てたのは、武士はお金を愛さないという証明でもある。
「ねえ、荒川さん、こうなったら一日でも長生きをして、恩給をたくさんもらうことですよ」
とお父さんは今頃になってようやく世間並みのしっかりした心構えを持とうと努めているのだ。
お父さんにしても、新聞記者をしていて大金ができるわけがないという現実が分かっているからこそ、とても諦めがよかった。
「しかし、アメリカはうらやましいねえ。
小さな町の新聞記者が二十年間勤め上げたおかげで、なんと百万ドルも貯めてすっかり引退したそうじゃないか」
などと言い出すのだった。「向こうのお給料がすごくいいんでしょうね」
とお母さんは耳よりな話だと言わんばかりに言った。
「いや、お給料というよりは運さ。
二十年目にカナダへ行っていた独身の叔父さんが亡くなって、遺産がどっさり入ったらしいんだよ」
「まあ、本気になって聞いていれば、また人を馬閣にして」
「なに、和洋東西を問わず、新聞記者で大金持ちになったためしなんてないという教訓さ」
とお父さんはどこ吹く風と落ち着き払っていた。
そんな状況の中で、僕は何とか自分の進む道(志)を決めなければならない。
もっとも、お伽噺(おとぎばなし)の世界から目を覚ましたのは僕ばかりではなく、同級生たちもみんな、それぞれに世間の厳しさや世知辛さを感じ取り始めていた。
顔を合わせれば、将来どの分野で活躍するかを語り合っている。
「うちの兄貴は医者だから、僕もやっぱり医者になるんだ。医者が一番儲かるからね」
「僕は弁護士がいいな。弁護士のほうが医者より気楽だし、大掛かりな道具もいらないから一番儲かるぞ」
「東京の復興にはこれから二十年はかかる。そう考えれば、工学部に入って建築をやるのが一番儲かるはずだ」
といった具合で、みんななかなかの欲張りぶりだった。
かつて活動写真のフィルムを交換して遊んでいた頃とはまるで違っている。
このほかにも一番儲かりそうな仕事はたくさんあるようだったが、
「軍人は儲からないぞ」
「先生も儲からない」
ということで、この二つには今のところほとんど希望者がいない。
「商売が一番儲かる」
というのはみんなの意見が一致するところで、会社や銀行の社員になりたがる者が一番多かった。
中には、実家がちょうどいい具合に商家だから、再来年学校を卒業したらすぐにでもお金儲けに取りかかるぞと決心している者もいる。
とにかく一番儲かることばかりを考えながら、みんな一生懸命に勉強していた。
まわりがそんな調子だから、僕もますます刺激されて、ずっと先の将来の仕事について敏感になっていく。
お父さんにお客さんの名刺を取り次ぐ時でさえ、名刺の肩書につい注目して、「これって儲かる商売なのかな」などと考えてしまう。
電車に乗っていても、車掌や運転手の募集広告を見て、「あんなに苦労するわりにはあまり儲からない仕事だからかわいそうだな」と思ったりする。
「あいつ、三井に入ったんだってさ」
「あんな大会社に入れるほどの腕なんてないはずだけど、コネがあって裏口から入ったんだろ」
「ほかにも、ヒキガクってあだ名の奴がいただろう?」
「いたいた、あの乱暴な奴か」
「あいつは安田に入ったんだとさ」
「みんなお金のあるところに入るんだな。川口なんて三越を狙っていたけど、この間とうとう入ったらしいぜ」
乗客同士のそんな会話を聞いても、昔なら強盗の仲間と勘違いして怖がっていたところなのに、最近はすっかり頭がそっちの方へ向いているから、すぐに就職の話だとピンとくる。
やっぱり会社や銀行が一番儲かると見えるし、僕の同級生だけでなく、頼もしい男たちはみんなそこに入りたがる。
友達の家庭を見渡してみても、会社員や銀行員を父親に持つ子がとても多い。
早い話が、我が家の両隣りだって会社員なのだ。
片方はビールを造ってみんなを酔っ払わせているけれど、もう一方は飲みすぎて脳出血を起こしても損が出ないように、生命保険を引き受けてくれている。
それに、ゴミ集めに来る作業員の人たちも会社の社員なのだそうで、「帝国衛生株式会社」と書かれた車を引いている。
そうそう、四谷の芳夫さんも今年の春に慶応を卒業して、三越に入ったっけ。
そのほか、お母さん側の親戚も大体みんな会社に関係している。
平社員ばかりでなく、重役だっている。
会社員はまるで神様みたいに、どこにでもいるのだ。
数で言ってもこれだけ勢力のある会社員なのだけれど、お父さんはなぜかあまり好んでいないらしい。
おそらく、考え方が少し古いのだろう。
このことは、この間の晩に芳夫さんがひょっこり遊びに来てくれた時に、偶然わかったことだった。
実は僕も、好き嫌いは別として「商売は自分のガラじゃないな」と思っていたところだったから、かなり安心した。
最初、僕が参考のつもりで、
「芳夫さん、三越のお仕事は面白いですか?」
と当たり障りなく聞いてみたのが、話のきっかけだった。
「つまらないですよ」
と、芳夫さんはいつになく元気がなかった。
「そんなに忙しいんですか?」
「忙しいことは忙しいけれど、毎日伝票を整理するだけだから、すごく退屈なんだよ。
もう一、二年は学校で野球でもやっていたほうがよかったよ」
「相変わらずのんきなことを言っているんじゃないよ。せっかく入れたんだから、しっかりやりなさいよ」
とお母さんがたしなめた。
芳夫さんは実家の跡取り息子だ。
学生の頃からうちによく遊びに来ていたので、特に遠慮のいらない仲なのだ。
「しっかりやるも何もないですよ。
初級翻訳・親鳥子鳥 第8話
佐々木 邦
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