しかしおかみさんは、その瞬間に、目玉がすっぽり抜け落ちてぽかりと二つの深い穴があいているような、男の恐ろしい顔に気づいていた。
それでも、何食わぬ顔でツンと立っていた。
男は傲慢(ごうまん)な態度で、
「この部屋に用があったら、ノックをしてからはいってもらいたいね」
「ノックはいたしましたよ。
何度も何度も。
でも、旦那さまがお気づきにならなかったんですから」
「それはしたかもしれんさ。
しかしだね。
この実験は一分一秒でも早く完成させなくてはならんのだ。
邪魔が入るとひどく迷惑するんだ。
ドアがあく音がするだけでも気が散って困る。
一度言ったことは、必ず守ってもらいたいね」
おかみさんは腹を立てて、
「わかりましたよ。
それでしたら、お部屋に鍵をおかけになったらいかがですか?」
「なるほど、そうだったな。
では、これからは鍵をかけることにしよう」
男は落ち着き払って答えた。
おかみさんはなおいまいましそうに、
「よろしかったら、この麦わらを片づけましょうか? ひどく汚れていますし……」
男はぎろりとおかみさんをにらみつけ、きっぱりと言い放った。
「触ってもらいたいね。
この麦わらであなたにひどく迷惑がかかるというのなら、その分だけ金をとってくれたまえ。
遠慮なしに勘定書につけておいてくれればいいよ」
これを聞くと、さっきまでカンカンに怒っていたおかみさんは、急に態度を和らげ、なだめるような声で言った。
「それはご親切にどうも。
どのくらいお掃除代をいただけましょうか?」
「一シリングでいいだろう?」
「結構でございますわ」
「では一シリングとつけておきなさい。
勘定をするときにいっしょに払うから」
「ありがとうございます。
それではどうぞ、お食事をなさってくださいませ」
おかみさんはお礼を言い、テーブルクロスをひろげて食事のしたくをととのえると、逃げるように部屋を出ていった。
台所へもどりながら、
「なんておかしな人だろう。
でも、掃除代が一シリングなら悪くないわね」
と、ひとりごとを言った。
うわさ話
黒馬旅館にかつての平和はなくなってしまった。
この田舎の旅館は、いつもひっそりと静かで、お客がいちばん立てこむ夏の間でさえ、たいして変わったことがあるわけでもなく、穏やかな毎日がくりかえされていた。ところが、奇妙な男がやってきてからというものは、おかみさんも主人のホールもすっかり落ちつきをなくしてしまい、ともすれば暗い気もちにおそわれるのだった。
男の部屋からひきとってきたおかみさんは、くるくると忙しげに働きつづけていたが、心の中では、ずっと男のことを考えつづけていた。
客の部屋は、一日中ひっそりと静かだった。
夕方、とつぜん、れいの客の部屋から、ものすごい音がひびいてきた。
がちゃーん、がちゃがちゃがちゃ!
ガラスびんや試験管がぶつかりあったらしい、はげしい音だった。
「たいヘんだ!」
おかみさんはひと声さけぶと、手にしていた鍋をほうりだし、台所からよこっとびにとびだしていった。
どん、どんどん……。
はげしく客の部屋の戸をノックした。
なんのこたえもない。
どーんと体ごとぶつかってみた。
しかし、ドアは内がわから、しっかりと錠がかかっている。
こんどは、ドアにぴったりとくっつくと、じっときき耳をたてた。
部屋の中からは、男のわめく声が聞こえてきた。
「だめだ、また失敗だ。
どうもうまくいかんぞ。
三十万かな、いや、四十万かな、なにしろたいした数だ。
おれはだまされたのかな? こんなことをやっていたら、一生かかってもできあがらないぞ、こまったなあ」
怒りと悲しみにしずんだ声だった。
それっきり、しばらく声はとぎれていたが、また、気をとりなおしたのか、
「やっぱりがまんしてつづけよう。
ここで投げだしては、いままでの苦心も水の泡だ。
それにしても、こんど、あいつに会ったら、ただではすまさんぞ」
おかみさんには、なんのことかわからなかったが、いかにも意味ありげな言葉だった。
おかみさんは、全身を耳にして、男の声を聞いていた。
そのとき、
「こんにちは、おかみさん。
いっぱいのませておくんなせえ」
大声をあげて、入口の酒場に客がはいってきた。
「ああ、もうすこし聞いていれば、なんのことだかわかるかもしれないのに……」
おかみさんは舌うちをしながら、酒場にでていった。
部屋のさわぎはおさまったらしく、それっきり二度とさわぎはおこらなかった。
ときどき、いすがきしむかすかな音と、びんがふれあうひびきが、かすかにきこえるだけだった。
いっぽう、馬車屋のフィアレンサイドは、黒馬旅館にきみょうな客の荷物を運んだ日の夜おそく、アイピング村のはずれのちいさなビヤホールで、一杯かたむけながら、いつまでもいきおいこんでしゃべりつづけていた。
あいては、時計屋のテッディ・ヘンフリイともうひとりの村の男だった。
「おれはこの年になるまで、あんな変なやろうは見たことがねえよ。
おれの犬が、あいつの足をがぶりとやったとき、おれはたしかに見たんだよ。
あの男の足はまっ黒なんだ」
「ほんとうかい? 人間の足がまっ黒だなんてことがあるものかなあ」
「おれの言うことをうたぐるのかい? おれはちゃんと見たんだぜ。
ズボンのさけ目と手袋のやぶれたところから、はっきり黒ん坊のようにまっ黒な肌がみえたんだ。
おめえなんか、どう思っていたかしらねえがね」
フィアレンサイドは、酔いのまわってきたビールのいきおいもあって、テーブルをたたきながら、がんとして言いはった。
ヘンフリイはまだ半信半疑で、
「だとすると、おかしいじゃないか? あいつの鼻はちゃんと白いんだぞ」
「そうだよ。
おめえの言うとおり、やつの鼻は白いんだ。
だからさ、おれが考えるのに、たぶんあいつの体はあちこち色がちがうんだろう。
白いところと黒いところがあってさ。
まだらになってるだろうよ。
だもんで、やつは恥ずかしがって、あんなにえり巻やオーバーをしっかり身につけて、かくしてるんだよ」
「まるでシマ馬みたいじゃないか。
白と黒のまだらだなんて、はっはっは」
「はっはっはっはっ」
三人は声をあわせて笑いころげた。
いつまでたっても、かれらの話はつきそうもなかった。
夕ぐれになると
馬車屋のフィアレンサイドと時計屋のヘンフリイの口から、黒馬旅館にとまったきみょうな客のことは、たちまちのうちにアイピング村にひろまっていった。
うわさはうわさを生んで、村人たちはよるとさわると男の話でもちきりだった。
しかし、村人たちはかれの姿を見かけることは、ほとんどなかった。
男はたいてい部屋にこもりきりで、いっしんに実験をつづけていたからだ。
日曜日に、村の人たちがみんなそろってでかける教会へもこないし、日曜だからといって、ゆっくりやすむということもなかった。
ふるくからの習慣をまもって、平和に暮らしている村の人たちは、この男のやることが気まぐれで、ひどく変わっているように思えた。
「黒馬旅館では、よくあんな変わった客をとまらせておくねえ。
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