初級翻訳・重兵衛さんの一家 第1話

寺田 寅彦

明治十四年(1881年)、ぼくがまだ四歳だった冬のことです。お父さんが名古屋の部隊から熊本の部隊へお仕事が変わることになって、おばあちゃんとお母さんと、お姉ちゃんとぼくの四人で、故郷の家に戻って落ち着きました。お父さんだけは一人で熊本へ出かけて行ったのです。

それから明治十八年(1885年)に東京の士官学校へお仕事が変わるまで、お父さんは一度も家に帰ってこなかったようです。

今の時代みたいに乗り物が便利ですぐに行き来できるわけではないから、家族がこんなに長く離れ離れになるなんて、今の人にはちょっと想像もつかないことかもしれません。でも、若い頃から人生の半分以上をよその土地であちこち飛び回っていたお父さんにとっては、五年間くらいの留守番なんて何でもなかったみたいだし、留守を守るおばあちゃんやお母さんにとっても、「それが当たり前のこと」だと思っていたようです。

当時の高知(土佐)と熊本の間なんて、今の日本とアメリカのカリフォルニアくらい、心の距離が遠く離れていたのです。

故郷の家に帰ってからすぐ、お姉ちゃんは町から一里(約4キロ)ほど西にあるA村へお嫁に行ってしまいました。だから家の中は、すっかり静かで寂しいものになりました。

それよりずっと前に結婚して家を出ていた一番上のお姉ちゃんの家(B家)が、ちょうど三軒お隣にありました。そこにはぼくより一つ年上の男の子(甥っ子)が住んでいたので、ぼくの小さい頃の思い出の多くは、このお姉ちゃんの家と自分の家を行ったり来たりしたことにつながっています。

そしてもう一つ、ぼくの心の中にとても大きな場所を占めているのが、家の門の脇にある長屋に住んでいた「重兵衛(じゅうべえ)さん」の一家との思い出です。

重兵衛さんの家は、昔(明治維新の前)はちゃんとしたお店をやっていた商い人だったみたいです。でも、ぼくが物心ついた頃は「仲持(なかもち)」、つまり今の土地や建物の売買をお手伝いする不動産屋さんみたいな仕事をしていました。口と足をしっかり動かしていれば、自然とお金が入ってくるような職業だったようです。

重兵衛さんは五十歳くらいで、体はふっくらと太っていて、顔はいつも真っ赤でテカテカと脂が光っていました。今になって思い返してみると、なんだかとても頭が良さそうな目つきをしていました。

夏の暑い盛りには、下着(下帯)一枚の丸裸になって、晩酌のお膳のあぐらをかき、竹の団扇(うちわ)で蚊を追い払いながら、本当においしそうにお酒を飲んでいました。そして、子どもたちを相手にいろんなお話をしてくれるのが、毎日の楽しみだったようです。

ある日、カツオのお刺身の薬味として、生のにんにくをカリカリと音を立ててかじっているのを見て、ぼくはびっくりしてしまいました。自分の家や親戚の人たちはどうしてにんにくを食べないんだろう?と思ってお母さんに聞いてみたら、「あれを食べるとトイレが臭くなるからいけないのよ」ということでした。

重兵衛さんの家では平気なことが、どうしてぼくたちの家ではいけないんだろう?と、子供心にとても不思議に思いました。

そんなふうに不思議に思うことがいろいろありました。その中の一つが、この「にんにく」の問題だったのです。

そのせいもあるのかもしれません。重兵衛さんがまっ白な歯の間に、まっ白なにんにくの一片をくわえて、カリッとかみ砕く姿が、まるでカメラのクローズアップ写真のように今でもハッキリと頭に浮かびます。

子供の頃の記憶って、どうでもいいような些細(ささい)なことが、ものすごく強く心に残っているものなんですね。

そういうことって、自分では「くだらないことだ」と思っていても、心の奥底では思いがけないほど重大な意味を持っていて、その後の人生にものすごい影響を与えているのかもしれません。でも、それをちゃんと分析して説明するのはなかなか難しいことです。

ぼくのこの「にんにく」の思い出について考えてみると、この小さな食べ物が、一方では「ぼくたちの家庭」と、もう一方では「重兵衛さんで代表されるような違う世界(階級)の家庭」とのあいだにある、いろんな物質的・精神的な違いのシンボルとして、心に焼き付いていたんじゃないかとも思えるのです。

重兵衛さんの晩酌のお膳のまわりに集まって、そのおもしろいお話に耳を傾ける聴衆の中には、時々小さなぼくも混ざっていました。

重兵衛さんの長男はぼくたちよりずっとお兄さんで、いつも熱心に勉強をしていたから、その輪の中には入ってきませんでした。でも、次男の亀(かめ)さんと、その妹の丑尾(うしお)さんがいつもやってくる常連のお客さんでした。

重兵衛さんの奥さんはぜんそくを患っていて、いつも顔色の悪い、小さくてか弱いおばさんでした。でも、いつも旦那さんのそばでお酒をついだり蚊を追い払ったりしながら、自分にとってはもしかしたら何とも面白くないかもしれない子ども向けのお話を、子どもたちと一緒に聞きながらニコニコと笑っているのでした。

表の川沿いの道路に面した格子窓には風鈴がぶら下がっていて、夜風に揺られて涼しげな音を鳴らしていた気がします。

どうしてこの、なんでもない普通の団らんの光景が、スタンプを押したようにぼくの頭にこびりついて離れないのでしょうか。

お父さんがずっと留守にしている間、おばあことお母さんと子ども三人だけで、けっこう広いお屋敷の中でひっそりと暮らしていた毎日は、子供心にもかなり寂しかったに違いありません。だからこそ、この「広くて寂しい自分の家」と、重兵衛さんの「狭くてにぎやかな家」のギャップが、子供の頭に何ともいえない深い印象を刻み込んだんじゃないかと想像できるのです。

あの頃のわが家のことを思い出すと、暗いランプに照らされたすすけた台所で、寒竹(かんちく)の皮をむいている寒そうなお母さんの姿や、茶の間で糸車をクルクルと回している、白髪でお手製の袖無羽織(そでなしばおり)を着たおばあちゃんの姿が目に浮かんできます。そして、井戸端の方から高く響いてくる、心にしみるようなコオロギの声が聞こえてくるような気がするのです。

お布団の中で、お母さんからよく話してもらった「阿波の鳴門(あわのなると)の十郎兵衛(じゅうべえ)の娘の悲しいお話」も、忘れられない思い出の一つでした。

でも、重兵衛さんのお話(レパートリー)は、そんなにたくさんはなかったようです。北山の法経堂に現れるお化けの火の話とか、荒倉山のタヌキが三つ目の怪物に化けたのを強い武士がやっつけた話とか、「しばてん」(木の葉の天狗)と一緒に相撲をとるお話。
それから、「えんこう」(河童)を釣るお話なんかを話してくれることが多かったのです。
たとえば「えんこう」のお話だと、夕方に涼みがてら江ノ口川(えのくちがわ)の橋の欄干に腰をかけていると、この怪物(かいぶつ)が川の中からそーっと手を伸ばしてきて、おしりを抜き取ろうとするんだそうです。
そこで、あらかじめ腰のところに鉄のお鍋をあてて待ち構えておき、おしりに触ってきた怪物の手首をグッとつかまえて、力いっぱいグリグリとねじり上げるのです。

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