初級翻訳・鉄塔の怪人 第1話

江戸川 乱歩

【のぞきカラクリ】

 名探偵・明智小五郎の少年助手、小林芳雄くんは、ある夕方のことでした。先生のおつかいの帰り道、麹町(こうじまち)にある探偵事務所の近くの、ひっそりとした通りを歩いていました。
 麹町には、戦争のあとが今も残っていて、広々とした空き地が広がっています。道の片側は草がぼうぼうと生い茂った空き地、もう片側は百メートルも続く長いコンクリートの塀です。
 日が暮れかけて薄暗くなったその道には、人影がまったくありません。気味が悪いほど、しんとしています。
 ひょいと、コンクリート塀の角を曲がったときのことです。そこに、妙なものがありました。
 手押し車の上に、四角い大きな箱が載せられています。その箱の正面には、三センチほどの小さな丸い穴が、横に五つ並んでいました。
 そして、その車のそばに、ひとりの白ひげの老人が立っていました。
 頭も真っ白、口ひげも白く、さらには長いあごひげが胸まで垂れ下がっています。しわくちゃの顔には、昔はやった小さな玉のメガネをかけていて、その奥でゾウのように細い目が光っていました。
 着ているのは三十年も前に作られたような、古い型で派手な格子柄の洋服。足元にはでっかいドタ靴を履き、腰の後ろで両手を組み、ニヤニヤと笑いながら立っているのです。
 人通りもないこんな寂しい街角で、一体何をしているのだろう。小林くんは、思わず立ち止まって、その妙な老人の顔をじっと見つめました。
「ハハハ……、おいでなすったね。わしは、さっきから君が来るのを待っていたんだよ」
 老人は、歯の抜けた口を大きく開けて、顔中をシワだらけにして笑いました。
「ぼくを待っていたって? 人違いじゃありませんか。ぼくは、おじいさんを見たことがありませんよ」
 小林くんがびっくりして言うと、老人は急に真面目な顔つきになりました。
「いや、人違いじゃない。君に見せたいものがあるんだ。この箱がなんだか知っているかね……知るまい。今から三十年も四十年前の子どもたちが、目を輝かせて見たものだ。『のぞきカラクリ』といってね。まあ、今の紙芝居みたいなものだが、ほら、そこに丸い穴があいているだろう。その穴から覗くのだ。そうすると、おもしろい景色が見える。穴にはレンズがはめてあるから、中の景色がまるで本物のように大きく見えるのさ。さあ、覗いてごらん」
 小林くんは、昔「のぞきカラクリ」というものがあったという話を聞いたことがありました。これがそれなのかと思うと、少し覗いてみたいという好奇心が湧いてきました。
 そこで思い切って、五つ並んだ丸い穴のひとつに目を当ててみました。
 小林くんは、「あっと」驚きました。老人の言った通り、レンズの働きで、箱の中にはまるで本物のような広々とした山や森が広がっていたからです。
 まるで飛行機に乗って、大きな山を上から眺めているような景色でした。おそらくはおもちゃの木なのでしょう。それが何百本も森のように集まっていて、本物の深い山を見ているようです。
 その深い森の中に、黒い建物が立っています。西洋のお城のような、丸い塔のある建物です。それがまるで鉄でできているかのように、真っ黒なのです。
 そのお城もおそらくは紙か薄い鉄板で作ったおもちゃなのでしょうが、レンズの効果で、まるで本物のお城のように見えます。
「よく見なさい。君はいま、日本のどこかにある山の中を覗いているんだよ。鉄の城が見えるだろう。これも、本当にその山の中にあるのだ。ほーら、どうだね。不思議なことが起こってきただろう」
 老人がしわがれた声で、そんなことをつぶやきました。
 すると、のぞきカラクリの中のお城に、ギョッとするような異変が起こったのです。
 お城の丸い塔の上に、なにかがモゾモゾと動いているのが見えました。それが塔の縁を乗り越えて、塔の壁をジリジリと這い降りてくるのです。
 それは、恐ろしく巨大な一匹の黒いカブトムシでした。塔の窓の大きさに比べると、そのカブトムシは人間ほどもあります。人間ぐらいの大きさのカブトムシが、塔を這い降りてくるのです。
 頭のてっぺんから、一本の黒く大きなツノが、ニューッと突き出しています。
 小林くんはそれを見て、西洋の怪談に出てくる「一角獣」という怪物を思い出しました。大きさといい、形のおそろしさといい、カブトムシというよりも、一角獣の怪物といったほうがふさわしいのです。
 この巨大なお化けカブトムシは、やがて塔を這い降りると、森の中を通り抜けて、だんだんとこちらへ近づいてきました。すると、森の茂みの中から、ひょいと飛び出してきたものがありました。
一匹のシカです。
怪物の姿を見て、驚いて逃げ出したのです。
そのシカがカブトムシよりも小さく見えたのですから、怪物の大きさがどれほどか、想像できるでしょう。
カブトムシはシカの姿を見ると、いきなり恐ろしい格好で飛びかかりました。
まるで巨大なクモが、巣にかかったハエに飛びかかるような、ものすごい勢いでした。
シカは、カブトムシの頑丈な前足に押さえつけられて、そこへ横倒しになってしまいました。
恐怖のあまり身動きもできず、まるで死んだようになって横たわっています。
シカが動かなくなったのを見ると、怪物カブトムシは一足あとに下がって、あの大きなツノをグッと下に向け、シカの横腹めがけてパッと突きかかっていくのでした。

小林くんは、のぞき穴から目を離しました。
あまりの恐ろしさに、見ていられなかったのです。
目を離してあたりを見ると、そこは元の夕暮れの町でした。
広がる空き地、コンクリートの塀、のぞきカラクリの箱を載せた車、そして白ひげの老人。
「ああ、よかった」
今のは本当の景色ではなかったのだと、胸をなでおろしました。
まるで怖い夢を見たあとのような気分です。
まさか、この箱の中に本物の山や森があるはずがありません。
みんなおもちゃの作り物です。
カブトムシもシカも、おもちゃで、簡単な機械仕掛けで動いていたのでしょう。
それがレンズの加減で、いかにも本物のように見えたのです。

「ハハハ……、どうだね。おもしろかったかね」
白ひげの老人は、小林くんの顔を見つめて笑いました。
そして、不思議なことを言うのでした。
「今の景色をよく覚えておくんだよ。これはのぞきカラクリだが、本当にこういう山や森があるんだ。黒いお城も、あのでっかいカブトムシもね……。君は、いまにきっと、思い当たるときがある。やがてこの世に、恐ろしいことが起こるのだ。ウフフフ……、それじゃ、小林くん、アバよ」
老人はそう言い捨てて車のハンドルを握ると、そのまま向こうへ遠ざかっていき、やがて町角を曲がって見えなくなってしまいました。
不思議なことに、のぞきカラクリを載せた車は、少しも音を立てませんでした。
そして、老人と車は、まるで夕もやの中へ溶け込んでいくように感じられたのです。

小林少年はぼうぜんとして、元の場所に立ち尽くしていました。
なにかキツネに化かされたような気分です。
今のは本当の出来事だったのでしょうか。それとも、幻でも見たのでしょうか。
小林くんは、なんだか背中のあたりが寒くなって、ブルッと身震いしました。

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