初級翻訳・鉄道模型の夜 第2話

円城 塔

専用のピーラーを試したこともありますが、包丁で切った方が好みに合いました。
レモンの皮に刃を当てて、果肉に当たらないように削ぎ続けると、おおよそ六片くらいがとれます。
皮は多めがよいとはいえ、二片もあれば十分です。さて、残りの皮をどうするか。あと二日続けて桃を食べるということでしょうか。
ところどころ皮をむかれて果肉がのぞくレモンは痛々しく、これを冷蔵庫に放置すれば、干からびるうちに凄惨な雰囲気を帯びてしまい、正視に耐えません。
仕方がないので、クレソンを買ってきます。
ボウルにレモンの果汁を搾り、塩と胡椒、砂糖を適当に振ります。
粉芥子を溶くか、マスタードを落とします。
クレソンを束のままねじ切って和え、オリーブオイルをかけておきます。
これでようやく一個のレモンを使い切ることになり、ひと仕事終えたという感覚になります。
一個でこの有様ですから、二つとなれば気が遠くなります。
そこに二個のレモンが並んでいたなら、まずは自分の目を疑いたくなり、次には「全てのレモンは、たった一つのレモンの別の姿なのではないか」と考えたりするのです。
そのレモンが、木になるというのです。
木になることは知っていますが、彼の暮らす世界の中でも実際にそういうことが起こっているのです。
しかも果樹というのは、どこかおかしいのではないかとこちらが心配になるほどの数、実を結ぶものですから、なおのこと、彼には尾道へ向かう動機がありました。
尾道というこの町を彼が取材先に選んだのは、第一に「緩急」を求めたからです。
箱庭における上下の動きは貴重なものです。たとえば100メートル進む間に10メートル上がる、10%の勾配というのは道としては急なものですが、これを30センチの箱庭に収めるならば、ほんの3センチほどにしかならず、物足りなさが否めません。
ここで全高30センチを狙うとなれば、縦断勾配は100%となってしまい、ほぼ絶壁ということになります。
角度にして45度の坂というのは、遠くから眺めるにはただの斜面にすぎませんが、実際に直面すると「本当に垂直な壁なのだ」としか思えません。
その半分、せめて15センチ程度の高さが欲しいとしても、勾配は50%です。
坂の角度はまだ26度にもなるのであり、模型のことだから多少の嘘はつくにせよ、風景を坂道だけで構成するのは無理そうであり、必然的に階段頼みになることでしょう。
「階段ということならば」と考えてみて、彼の頭に浮かんだ名前が尾道だったのです。
第二の理由は、地形の変化が必要だったことです。
彼の腕では、平地ばかりでは間が持ちにくいのです。
海と山を求めるならば、別に神戸でもよいだろうと出かけたこともあったのですが、何気なく電車で過ぎる分には迫って見えた山々も、いざ箱庭に収めるという目で眺めてみると、どうにも広がりすぎていて、手に負える気がしないのでした。
六甲山地から淡路島あたりを含む光景を切り取ることも考えたのですが、それは大きな地勢図のようになってしまい、鉄道模型からはかけ離れてしまうことになりそうだったのです。そして、これが最後になりますが、「瀬戸内」という言葉の響きが、彼はどうにも気になっていました。一度、ゆっくりとこの目で見ておきたいという気持ちもあったのです。
それは一体、海なのでしょうか、それとも湖、あるいは川なのでしょうか。そんな素朴な疑問が心に浮かびます。
海であることは間違いありませんが、それにしては流れがあるとも耳にします。
北国で育った彼にとって、瀬戸内海というものはひどく遠い海でした。オホーツク海や太平洋、日本海よりも遠く感じられ、下手をすれば地中海よりも遠い場所のように思えるのです。
須磨のあたりで見かける瀬戸内海は、まだほんの入り口に過ぎないのではないか、そんな疑いさえありました。

彼が箱庭のモデルにするために選んだ宿は、海沿いにありました。
かつては倉庫だった建物を改装したもので、二階建てになっています。
何か深い意図があったわけではなく、検索の結果目についたものを適当に選んだだけのことです。
建物のおよそ半分は商業施設になっており、レストランが置かれ、バーカウンターが併設されていました。
土産物が並び、その並びの先がそのままホテルのフロントにつながっています。
なんとなく高層の建物を想像していた彼は、携帯端末の地図を見ながら周囲を何度か回り、ホテルらしきものが見当たらないのを不思議に思いました。しかし、立ち止まって落ち着いて目を上げると、そこにはホテルの入り口がありました。「なるほど、そういうことだったのか」と、もう一度倉庫風の建物を眺め直すと、そこはもうホテル以外の何物でもなく、今まで自分が何を見ていたのか、その記憶が急速に塗り替えられていくような気分でした。

フロントで案内を乞い、二階の部屋の鍵を受け取ります。部屋の壁には、何かトロフィーのようなものが突き出ていました。
ここで言うトロフィーとは首級、つまり狩猟の成果として動物の首を剥製にして壁に飾るあれのことですが、そこにあったのは角だけでした。それも動物の角ではなく、自転車のハンドルをかけておくための器材で、その傍らには「人間はぶら下がらないように」という注意書きが記されています。
寝室の向こう側には、壁とガラスで仕切られた水場が見え、外壁の先はすぐ、さきほど彼がスーツケースを引きずりながら歩いてきた海沿いの道になっています。なるほど、道の向こう側に掘られた、世界の裏側の隠れ家にたどり着いたような気分になりました。

自転車という言葉から分かる通り、この尾道の地は「しまなみ海道」の起点、あるいは終点であり、瀬戸内の島々をつないで四国の今治まで続く、整備された道の端点なのです。
車も通りますが、自転車も通ります。
自転車が通ることで有名な道です。
全長で60キロほど、島々をつなぐ海上の道が続いているのです。
「なるほど、この宿はそういうことか」と、彼はようやく思い至りました。自転車でやってくる客を主に想定していたのかと考えると、スーツケースをゴロゴロと引きずってきた自分の姿が妙に可笑しくなりました。それならば自分も、と意気込んでみたものの、さて何をどうしたものかと考え始めました。
家には確かに折りたたみ式の小径自転車があるのですが、それで60キロもの距離を走り抜けるのは心許なく、かといってロードバイクを一式揃える気も起きません。では借りようかと考えてみて、ようやく「海の上に鉄道はあるまい」ということに思い至ったのです。

今回、彼は鉄道模型を配置するような箱庭の取材でここへやってきたのであり、高低差を求めていたのでした。
架空の箱庭のことですから、海の上、島々を結んで走る鉄道を想像するのも自由でしたが、そうするための心の準備は全くできていませんでした。果たして世界のどこかに、主に海の上を走る汽車というものが存在するのかどうかも分かりません。
実のところ彼の中では、島を伝って海を渡るという想像自体が育っておらず、並んで浮かぶワニの背中をぴょんぴょんと跳んでいく白兎の姿が浮かぶ程度のもので、鉄道を通せるような強固な土台を海につくることができないでいるのです。

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