彼の趣味は「箱庭づくり」でした。鉄道模型はそのあとからついてきたものです。
だから最初は、小さな庭でも家のミニチュアでも、何でもよかったのです。
といっても、押絵を風呂敷に包んで旅をするような風流な趣味があるわけではなく、小さく作ることに「持ち運びやすさ」を求めていたわけではありません。
むしろ、旅をするのが面倒くさいからこそ、宇宙そのものを箱の中に閉じ込めてしまおう。そんな気風が彼にはありました。
つまり、「旅をするなら箱庭の中を旅したい」のであって、「箱庭を持って旅をする」なんてことは本末転倒だと考えていたのです。
しかしその一方で、箱庭というものには、箱という枠組みがあるせいで、どこか息苦しさが伴うのも事実でした。
「世界を閉じ込めたいけれど、息はしていたい」。それは彼にとって、なんとも贅沢で悩ましい問題でした。
風景には空気の通り道が必要なのです。
試行錯誤の末、彼が出した結論は「幾筋かの道をつけてやること」でした。右から左へ、あるいはその逆へ、貫通する何かを置いて風を通わせるのです。
手前から奥へという配置は、遠近法を強調しすぎていて、少しわざとらしい気がしました。
自動車教習所のような環状の道には、どこか徒労感が漂います。岬の先や、行き止まりの線路といった想像は、淀んだ空気につながってしまう気がしました。
どこから来て、どこへ行くのかはわからない。とにかくそこを経由することだけが確かな、「切り取られた流れ」こそが、彼の気性に合っていたのです。
通すものは何でもよかった。川でも道でも自由でした。しかし、ふと「鉄道」という言葉が浮かんだとき、汽車が走り抜けるというだけで、なんだか箱庭を最後まで完成させられそうな気持ちになれたのです。
こうして彼は、鉄道の走る箱庭を趣味にすることになりました。ところが、それが嵩じて自然と「取材の旅」へ出ることになります。なぜなら、彼の頭の容積よりも、外の空の方がずっと広かったからです。つまり、材料不足に陥ってしまったのです。
箱庭の中では汽車だけが確固たる存在感を放ち続けているのに、彼の中の思い出たちは、まるで紙やプラスチックでできているみたいに頼りなく、直角に曲がった道ですら不安げに見えてしまったのです。
こうして箱庭づくりは、彼を箱の外へと連れ出すことになりました。旅をするのが面倒だから箱庭を眺めていたはずの彼が、今度はその材料を求めて旅へ出かける羽目になったのです。
その流れを自分でも奇妙だとは思ったものの、意外と苦にはなりませんでした。カメラを構えて、模型に使えそうな細部を集める旅は、箱庭の材料を買い出しに行くのと、あまり変わらないと感じたからです。
カメラについた望遠寄りのレンズも、その印象を強めてくれました。
はじめの頃は広角レンズも試してみたのですが、レンズ越しに広がる、まるで旅先そのもののような光景は、彼をひどく当惑させました。そんな大きな広がりは、彼の頭の中には収まりそうもなかったからです。
彼がつくる三十センチ四方程度の箱庭は、どこかの風景をそのまま写したものではありません。あちらこちらから集めてきた細部を積み重ね、継ぎ接ぎしてできたものです。
どこかの町の、いつかの一瞬を正確に切り取りたいのなら、まさにその時、その場所に立っているしかありません。それなら箱庭など作る必要はないのです。
自然界では、今目の前が晴れなら雨にはできません。春なら冬ではないし、夜なら朝ではないのです。
彼が箱庭を愛する理由は、そうした「堅苦しさ」や「几帳面さ」が、どうにも苦手だったからでした。あちらは朝で、こちらは夜。そちらは春で、すぐ隣は冬。そんな庭を趣味にしたかったのです。
川の横には道が伸び、鉄道がその上を交差していて、ありえないような急カーブで曲がっていくような景色を、彼は好みました。
模型にすると、自然はどうしても間延びしてしまいます。ただサイズを縮めただけでは、本物らしさが消えてしまうのです。
ならば、と彼は箱庭にやたらと物を詰め込み始めました。彼の箱庭は、ちょっと賑やかなお弁当箱のような見た目になっていきます。でも、「自分の眺める世の中だって、まさにこんなものだよな」という気持ちがしてきて、もし世の中が実際にこうであったらいいのに、と考えたり、いやいや、こんなにごちゃごちゃしていてはかなわないな、と同時に考えたりするのです。
片側に迫る山は、狭い平地へと急速に下りていきます。その平地には、高い側から鉄道、道路、商店街と続いています。
さらに下がると、横に長い水の広がりがあります。これはおそらく海でしょう。実際、瀬戸内海なのです。その対岸には、四国へと飛び石のように続く島の一部が見えています。
島にはレモンが植えられていて、黄色い実が点々と並んでいます。
海には二隻でひと組のフェリーが浮かび、平地が終わるところから山へ向かってロープウェイが配置されています。その先は箱庭の天へと消えていき、うかがい知ることはできません。
線路は鉄道駅と、駅前のバスターミナルに出迎えられています。周囲には会議場やホテルが並び、海沿いの道が現れます。
小さく群れる学生の姿や、スーツケースを転がしたり、自転車を押したりする観光客の姿が見えます。夕食用の買い物から帰る人々と、朝、会社へ向かう人々の流れが、すれ違っていくのです。夜は東から明け、西へと暮れていきます。フェリーはその境目で、島と陸地を、そして朝と夕とを結んで行き来しています。
対岸まではほんの数分の距離なので、向こうで乗り降りする人数さえ数えられるほどです。フェリーは着くとすぐ離れ、離れるとまた岸へつき、二隻の船は互いを追いかけながら、まるで巴(ともえ)を描いているように見えます。
箱庭の岸にはたくさんのガントリークレーンが並び、浮きドックがその横腹を見せています。
駅舎よりも大きなそれらの巨大構造物は、まるで気配を消しているかのように、自然と風景に溶け込んでいます。
もしもそれらの巨大な機械に注目する人がいたとしたら、まるで静かな町に巨大な怪獣たちが襲来してきたかのような光景が広がっているはずです。しかし、箱庭の中に住む人々はそんな怪獣たちに気づくこともなく、日常を暮らしています。今、駅から出て海を眺めている彼は、そのことをとても不思議に思っていました。なんとかして怪獣たちを倒す手段を見つけなければ……そのためには爆弾が必要だろう。爆弾といえばレモンで、レモンといえば爆弾だ。だから、この箱庭にはどうしてもレモンが必要なはずだ。でも、レモンが木になるなんていうのは、やはり嘘ではないだろうか。彼は対岸の島の一部を見ながら、そんなことを考えていました。
北国育ちの彼にとって、レモンとは遠い南の国の作物で、基本的には輪切りにされて、ソーダや蜂蜜の中に沈められているものでした。
丸ごとのレモン一個でさえ過大に感じられ、使い切れる気もしません。
彼がレモンを求めるのは、桃の季節に水牛のチーズと合わせる時くらいのことです。チーズをちぎり、桃を乱切りにして塩を振ります。
オリーブオイルをまわしかけ、細切りにしたレモンの皮を散らすのです。
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