伯母さんは百人一首の歌をすべて暗記していて、床に入ってから、独特のもの寂しい節をつけて、一晩に一首か二首ずつ、根気よく私に覚えさせました。
伯母さんが「たちわかれ」と言う。
私が「たちわかれ」とあとをつく。
「いなばのやまの」
「いなばのやまの」
「みねにおふる」
「みねにおふる」
そんなことをしているうちに、いつのまにか眠りについてしまうのです。
うまく覚えられたときは、「明日ご褒美をあげるから、さあ寝るだよ」と言って、布団に叩きつけるようにして寝かせてくれました。
私が歌を早く覚えるのを、まるで大変に偉い子であるかのように思って、伯母さんは明くる日、母などに「昨晩は二つもすらすらと覚えたよ」などと、自慢げに話したりしました。
私は意味もわからぬまま、歌の中の知っている言葉だけを集めて、ぼんやりと一首の意味を想像し、さらにその読み声からくる雰囲気とあわせて、深い感動を覚えていたのです。
その頃、私は古い歌がるたを持っていました。それには一枚の札の中に歌と、その歌にあわせた絵が描いてありました。絵は擦り切れて消えかかってはいましたが、それでも松に雪が降り積もっているところや、紅葉の下に鹿が立っているところなどは、ぼんやりと見分けることができました。
また、百人一首の綴じ本もありました。
歌の好き嫌いは、かるたの絵や、詠み人の姿、顔かたちによっても決まります。
好きな歌は「末の松山」の歌、淡路島の歌、大江山の歌などでした。
「末の松山」の歌は、私の耳に言いようのない柔らかくもの寂しい響きを伝えてくれ、かるたの絵には松の浜に美しく波が寄せてありました。
淡路島の歌は涙を誘います。海の上を舟が行き、千鳥が飛んでいくのです。
大江山の歌を聞けば、お姫様が鬼にさらわれて山奥へ連れて行かれるという、草双紙(絵本)の話を思い出さずにはいられませんでした。
僧正遍照や前大僧正行尊といった皺くちゃの坊さんは大嫌いでしたが、蝉丸だけは名前からして可愛らしく思えました。
十九
雪の降る夜には、伯母さんはあんかの炭団(たどん)をかきおこしながら、「雪坊主が白い着物を着て戸の外に立っているよ」などと言って人を怖がらせます。
暑い季節には、寝苦しがるのを扇いでくれる団扇(うちわ)の絵にも好みがあって、好きな絵でなければなかなか寝つきません。
いい匂いのする蚊帳の中で、外を飛ぶ蚊の音を聞きながら、いたずらに自分の指の骨をひとつ折ってみたりしていると、隣の寺の藪へ「ごろすけ(ふくろう)」がやってきて鳴きます。
伯母さんは「ぽっぽどりは悪い鳥で、ひと声鳴くたびに蚊を千匹も吐き出すそうだ。明日は蚊がたくさん出るよ」などと言います。
涼しい風が吹くころになると、コオロギが鳴き始めます。
あるとき、可愛がろうと思って蛍籠に入れておいたところ、二声か三声鳴いたきり黙っているので、そっと覗いてみたら、籠に張った絽(ろ)の布を食い破って、みんな逃げてしまっていました。
その声を聴くと、子供心にもなぜか秋が立つという寂しさを覚えるのです。
伯母さんは「寒くなったから綴れさせ(布を綴れ、と鳴く)」と言い、乳母は妹に「乳のめ、乳のめ、乳を飲まないと食いつくぞ」と鳴いているのだと言いました。
朝、どうにかして早く目を覚ますと、少林寺の槙(まき)の木に巣を作っている烏の声が聞こえます。それを伯母さんは「まだ一番烏だよ。待って寝るだよ」と言って、なかなか起こしてくれません。
二番烏が鳴き、三番烏が鳴いて、ようやく起こしてくれるのです。そんなことを言って、ちょうどいい時間まで寝かせておくのでした。
夕方になれば、寝間の前にあるこんもりとした珊瑚樹の茂みに、大勢の雀がねぐらを求めてやってきます。首を振って嘴(くちばし)を研いだり、枝を争ってつつき合ったりして騒ぐのです。
お天道様が隠れて、やがて残りの薄い光も消えてゆけば、ひとつふたつ「ちゅく、ちゅく」と寝遅れていたものまでが黙って静かになってしまいます。
その雀たちを友達のように思っていたので、三番烏が鳴いてもまだ起きずにいると、ねぐらを立っていく彼らが「ちゅうちゅう」と言い出すのが、私の寝坊を笑っているような気がして、大急ぎで床を飛び出すのでした。
珊瑚樹はその名に背かず、真紅の実を結びます。柔らかな苔の上に落ちているのを拾うのも、嬉しいことのひとつでした。
二十
三四十坪ほどの裏の空き地は、半分は花壇に、半分は畑になっていました。
夏のはじめのころになると、垣根の外を苗売りが涼しげな声をして通り過ぎます。
伯母さんはそれを呼んで、野菜の苗を買うのでした。藁で編んだ箱の中には、しっとりと水分を含んだ細かい土が入っていて、いろいろな苗が元気よく二葉をのぞかせています。
菅笠をかぶった苗売りの男の人が、とても大事そうにそれをすくい出します。
伯母さんは茄子や瓜の苗を少しずつ買って、畑に植えるのです。
茄子の紫がかった苗や、南瓜や糸瓜の、うす白く粉をふいたような苗が、楕円形の二葉をゆらゆらさせているのを、朝晩ふたりでじょうろを使って水をかけてやります。
苗は見るたびに成長して、蔓が伸びたり、葉が茂ったりして、しまいには畑じゅうを這い回って、大きな実をぶら下げるようになります。
それを楽しみにして、様子を見に行くのです。
そんな世話好きな伯母さんは、ぶつぶつ言いながらも竹を立てて、蔓が巻きつくように手助けしてやります。すると一日一日と蔓が巻きついていき、ざらざらした葉っぱの間に、黄色や紫の花が咲きます。
そこへ丸っこい虻がやってきて、我が物顔で飛び回っては、花の中へもぐり込んでいきます。
実のならない花がぽろぽろと落ちるうちに、本当の花の根元がふくらんできて、平たくなったり、長細くなったりして、世間でいう唐茄子や南瓜の形ができあがります。
茄子の巾着のような形や、糸瓜のぼんやりとした姿、つぶつぶしていてなんだか憎たらしい黄瓜など。
葉っぱをよけてみて、思いがけず実がなっているのを見つけたときの嬉しさは、例えようもありません。
なた豆やふじ豆、ちびた筆のような葱の花も咲きます。
あるとき唐茄子の苗を買って植えたら、育つにつれて様子が変わってきて、とうとう瓢箪になってしまったことがありました。
私はいくつもぶら下がった瓢箪を見て大喜びでしたが、伯母さんは苗売りにまんまと騙されたのが悔しくて、ろくに世話をしてやらなかったので、みんな落ちてしまいました。
それからは、下の町の青物屋へ買いに行くことにしたのですが、伯母さんはどんな苗を見ても「これは瓢箪じゃないのかしら」と疑い、「もし育ってから瓢箪がなったら、その瓢箪の木を返しに来なさいよ!」と言って、青物屋を問い詰めるのでした。
畑をめぐる杉垣の陰には、祖母の栗と、私が拾ってきてまいた胡桃が芽を出しています。
また、祖母が好きで植えておいた鳳仙花の種が散らばって、あちこちに咲いています。
とりたてて目立つ花ではありませんが、私も鳳仙花が大好きです。
いたずらに花を摘んでは、爪を染めたりします。
おしろいの実をつぶして、白い粉を出すのも面白かったものです。
杏の花や、緋桃の花。
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