揺れながら轟音を響かせ、汽車は天窓から鈍い錐(きり)となって、山の底へ潜り込むかのような、ただならぬ気迫に、少なからず圧倒されたのです。
「これは難所だ」
美人に見惚れていたせいか、あろうことか、ぐったりと鏡台にもたれかかっていたという、なんとも他愛のない様子でした。
慌てて腰掛けに上がり込み、月の光が差していたガラス窓に、骨抜きにされて凍りついていた体を引き戻します。慌てて姿勢を正し、爪先立ちで下駄を拾い、外套の下でずるりと緩んだ帯を締め直しました。襟を合わせる時、袂(たもと)へ滑り落ちて宙に留まっていた大切な旅費を、懐へ「お戻りください」と収め直し、前妻をぐいと引き締めました。
「いや、なかなか……まだまだだぞ」
汽車は轟々と、まるで滝に巻かれたかのように響き渡ります。
ここで整然と腰掛け、外套の袖を合わせて、一つ下腹に力を入れて落ち着こうとしたのですが、だらしなく立て続けにむせ返ってしまいました。
煙がひどいのです。
五
室内一面が濛々とした上に、あくどい黄色みを帯びた煙が、生暖かい川のような流れを作って、むくむくと泡を吹くように……獅子の面のような形をした窓々の隙間という隙間、天井、廂(ひさし)の合わせ目から流れ込んできます。
噂も知らなかったトンネルがこれだとしたら、有名な笹子はどれほど恐ろしいことでしょう。
いっそ中山道を中央線で、名古屋へ大回りしようかと思ったほどです。
「何にしてもひどいぞ、これは……毒を以て毒を制すとしよう」
そこで、袂からタバコを取り出してマッチを擦りました。
口元でパッと燃えた火で勢いづき、わざと煙を深く吸い込んで、石炭の臭いを吸い取って吐き出します。
目もいくぶん爽やかになって、ふっと呼吸をした時――ふと、いや、初めてと言いましょう――彼が斜めに座っていた、向かい側の腰掛けに、折り重なる霧の中に、落ちて重なり合った美しい影を見ました。
影ではありません。色鮮やかな衣の、艶(あで)やかな姿を見たのです。
「女がいる」
しかも二人……。
そう認めたものの、萎縮してしまいました。両方が左右から、一人は一方の膝の上に、一人は一方の、乱れた髪が肩にかかった方に、袖で顔をぴたりと覆ったまま、寄り添い抱き合うようにして、俯せになって悩ましげです。
姿をそうしてしなやかに折り重ねた、袖の色は濃い萌黄色(もえぎいろ)。そして深い紫色です。
いずれも上に羽織を重ねていると分かりましたが、縞模様までは分かりません。
言うまでもなく紋が入っているのでしょうが、煙に包まれて朦朧としていて見えません。小袖も判然としません。
が、二人とも紋縮緬(もんちりめん)なのでしょう、絞り染めのような斑点のある緋色の長襦袢を着ているのは確かでした。
絡み合った四つの袖から、萌黄色とその紫色が彩りを分けて、八つに散らばりながら、しっとりと縺れ合って、紅に乱れた姿。
……その赤色は、俯いた襟から滑り落ち、もたれかかった衣紋(えもん)から崩れて、肌も透き通るかのように、ちらめいて、気勢は沈んでいるのに燃え立つようです。
その胸元を、萌黄色に溢れ、紫色に垂れて、伊達巻でしょう、一人は鬱金色(うこんいろ)、一人は朱鷺色(ときいろ)の帯が、だらりと結ばれてずらりと摩れています。
「おや、もしや女郎かな」
とはいえ、襦袢の上に羽織をかけただけで旅をすべき理由はありません。
……駆け落ちかと思いましたが、頭巾(ずきん)も被っていません。
顔を互い違いにして、肩に前髪を伏せた方は、こちらを向くようにして、やや俯くように紫の袖で覆っています。がっくりとしているので陰になり、髪の形は認められません。
その膝に萌黄色の袖を折りかけて、突っ伏している方は、絞りか鹿の子か、ふっくらと緋色の手柄(髪飾り)を掛けていました。もつれた髪はふさふさと揺れつつも、煙を分けた鬢(びん)の艶やかさ、結綿(ゆいわた)に結い上げられていました。その萌黄色の女の上に座って、紫の衣の女が、斜めになよなよと腰を掛けていました。
落とした裾も、屈めたつま先も、痛々しいまでに乱れています。
年齢は言うまでもありません。上に重ねた衣ばかりで、手足も同じ白さに見えるほど、寸分違わぬ背丈と体格。
……という、その背丈と体格が?……
六
「見世物になるような女ではないか」
一度、そう思ったほど小さかった。
が、いじけたのでも縮んだのでもない。
吹き込む煙に悩乱した風情ながら、どこか瑞々しく伸びやかに見える。
襟元、肩付き、裾の乱れも自然で、見ていて見事な釣り合いだ。
小さいというよりは……小作りに過ぎるのであった。
汽車は谷底へ落ちていくかのように留まることがない。
煙が濃いのは、まるで岩を崩し、泥をかき分け、波のような土を煽って、七転八倒あがき悶えているかのようだ。
世間でいうには、トンネルの最も長いものでも、ゆっくりと煙草を一服吸う間くらいだと聞く。
二本目を吸い付けた時、彼は不安の念を禁じ得なかったのであった。
……不思議な伴侶である。
姿に色を凝らした、朦朧とした女の抱き合った影は、汽車に事変が起こる前兆ではないのだろうか。
かつてこのトンネルを穿った時、工夫たちが鶴嘴(つるはし)や爆裂弾の残酷な犠牲となった、その弱き魂たちの幻ではないか。
あるいはこの室にのみ、場所と機会によって形を現す、世に亡き人の怨霊ではないのか。
そう誘い込まれた彼は、ぐらぐらと地震で揺れる墓の中に、一緒に住んでいる者のような気がして、おかしいほど不安でたまらない。
じっとしていることに耐えられなくなって、急にすっと立つと、頭がふらふらとしてドンと尻もちをつき、一人で苦笑した。
ふと大風が止んだように轟音が止み、汽車の音は元に戻った。
彼は慌ただしく窓を開けて、呼吸のありったけを口から吐き出すかのように月を仰ぐ。すると澄み切った山の腰に、一幅の尾花(すすき)の影を残して、室内の煙が透けていく。
それが岩に浸み込んで次第に消えていく。
夢から覚めた思いで、厚ぼったかった顔を撫でた。その掌を膝に支えて、気もはっきりと向き直った時、彼は今までの想像のあまりの愚かさにまた独りで笑った。
いや、知り合いでもない女の前で、独り笑いをするのは梟(ふくろう)のような怪しい振る舞いだろう。
冥界の伴侶か、墓の相借家か、とまで怪しんだ二人の女が、別状なく、しかも揃って美しい顔を上げていたからだ。
「やはりトンネルに悩まされたんだ」
と彼は頷いたのであった。
「そして、踊り……踊りの帰りか。こうも着崩した様子を見ては、往路ではあるまい。踊り子だろう。
後の宿あたりに何か催しがあって、そこへ呼ばれた、なんとかいう町の選り抜きとでも言うのが、一つ先か、それとも次の駅へ帰るのだろう。
……踊りの催しといえば、園遊会か何かで、灰色の手、黄色い手、樺色の手、鼬(いたち)、狐、狸、中には熊のようなのも混ざった大勢の手に、引きずられ、掴み立てられ、袖も振りも乱れたままを汽車に乗った落人らしい」
落人と言えば、踊った番組も何かそうした類のものかもしれない。
……その紫の方は、草束ねの島田とも見えるが、ふっくらした男髷に結っていたから。
こちらは、やや細面で。
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