初級翻訳・神州天馬侠 第74話

吉川 英治

ふと見れば、黒百合谷の百合の精か、星月夜からこぼれ落ちた星かと思われるほど、気高く美しい姿です。彼女は手にしていた横笛を、山千鳥が鳴くのかと思うほど強く吹き鳴らしました。
「や、や? ……」
 五人の男たちが、どうしたものかと進むことも戻ることもできず、深山笹の茂みでうろうろしていると、白樺の梢の少女は虚空に向けて高く笛を吹き、サッ、サッ、サッと三回、何かの合図を送りました。
と思った瞬間、神代川の渓流が逆巻くように、ウワーッとあちこちの岩陰から、一斉に伏兵が姿を現しました。
これこそが、咲耶子の一指一揮(いっしいっき)で現れる、裾野を制圧する「胡蝶の陣」です。
「しまった!」
 丹羽昌仙(にわ しょうせん)が絶叫しました。
すると崖の上から木隠龍太郎が、
「賊徒、動くな!」
 と戒刀(かいとう)の鞘を払って、銀色の蛇のような刀を頭上に振りかぶって飛び降りてきました。
矢のように飛び出した龍太郎に対し、昌仙が一太刀受けている隙に、呂宋兵衛とその影武者、蚕婆(かいこばば)と早足の燕作(えんさく)の四人は、四方八方へバラバラに逃げ散りました。
すると、行く手にまた巽小文治が現れ、朱色の柄の槍をしごいて、燕作を見るやいなや、「えいッ!」とばかりに逆落としに突きかかりました。
もともと武道の心得などない燕作は、受ける気もなくかわす気もなく、ただ助かりたい一心で、神代川の水音めがけて飛び込んでいきました。
しかし小文治はそんなことには目もくれず、ひたすら呂宋兵衛の姿を追って駆け出しました。
一方、丹羽昌仙は龍太郎の切っ先をかわすと同時に断崖を滑り落ち、伏兵たちに捕まりそうになりましたが、必死に四、五人を斬り倒しました。そして、倒した敵の陣笠と小具足を素早く身にまとい、まるで伏兵の一人のような挙動をして、まんまと伊那丸方の部下になりすまし、逃げ出す機会をうかがっています。
もっとも足の遅い蚕婆は、例の針を口に含んで元の抜け穴へ舞い戻り、見つかったら吹き針の奥の手を出そうと目を光らせていましたが、悪運はまだ尽きず、穴の前を加賀見忍剣と龍太郎が駆け過ぎたにもかかわらず、とうとう見つけられることなく息を殺していました。
「木っ端どもはどうでもいい、呂宋兵衛はどうした!」
「これほど手をつくしながら、当の呂宋兵衛を取り逃がしたとあっては、若君に対しても面目ない。者ども、余人には目をくれず、呂宋兵衛を取り押さえろ!」
 忍剣と龍太郎が、ほとんど狂気のように怒鳴り散らして駆け回りましたが、なにせ身を隠すには十分な深山笹、杉の若木、蔦葛(つたかずら)などが生い茂っているため、動きも自由にならず、探し出すのも一苦労でした。
すると、彼方の山から、
「やあやあ、巽小文治が和田呂宋兵衛を生け捕ったり! 和田呂宋兵衛を生け捕ったり!」
 と、声が山いっぱいに鳴り響きました。
「ワーッ――」
「ワーッ」
 と、手柄を上げたことに対する味方の歓声が、谷間に遠く山彦となって響き渡ります。
さしも強悪無比を誇った呂宋兵衛も、いよいよここに天運が尽きたのでしょうか。

多宝塔

一

 山県蔦之助(やまがた つたのすけ)も、さっきの笛の合図と、小文治の手柄を知らせる声を聞いて、弓組のなかから一目散にそこへ駆けつけてきました。
「でかした小文治!」と仲間たちの功を喜びつつ、忍剣も龍太郎も声のする方へと飛んで行ってみると、いましも小文治は、黒衣の大男を組み伏せて、あたりの藤蔓(ふじづる)でギリギリと縛り上げているところでした。
「おお、見事やったな」
 蔦之助と龍太郎が、仰ぎ見るように褒め称えます。
忍剣はちょっと残念そうに、
「どうも今日は、よく小文治どのに先陣を越されてしまう日だわい……」
 と、嬉しい気持ちのなかに悔しさを滲ませながら、腕をさすっていました。すると、白樺の梢の上から、一部始終をながめていた咲耶子が、にわかに声を張り上げて言いました。
「あれあれ、蔦之助さま、忍剣さま! 上の方が手薄になった隙をついて、和田呂宋兵衛が逃げのぼりましたぞ、早くお手配なされませ!」
「な、なんと申すか!」
 四人は、愕然として空を見上げました。
「咲耶子どの、その呂宋兵衛は、ただいま小文治どのがこれにて生け捕りましたぞ。それは何かの人違いではあるまいか」
「いいえ、いいえ。確かにあちらへ登ってゆくのこそ、間違いなく呂宋兵衛でございます。おお、施無畏寺(せむいじ)の境内へ隠れようとして様子をうかがっておりまする。もう、わたしもこうしてはおられませぬ」
 咲耶子は笛を帯に挟み込み、スルスルと白樺の梢から下りてしまいました。
「や、ことによると、あちらも……?」
 忍剣は、先ほど空井戸で打ち殺した影武者を思い起こして、その黒衣の襟首をグイとつかみました。
 同時に、その顔をのぞき込んだ龍太郎も、思わず声をはずませて言いました。
「はてな、呂宋兵衛は蛮人の血を混ぜた、紅毛碧眼(こうもうへきがん)の男であるはずだが、こいつは似ても似つかぬただの野武士だ。うーむ、さてはおのれ、影武者であったな!」
「ええい、残念ッ!」
 怒りが頂点に達した巽小文治は、朱色の柄の槍を手にすると、一閃に突き殺しました。せっかく手柄を立てたと名乗りを上げた手前、当の本人を取り逃がしてなるものかと、無我夢中で崖の上へと駆け戻りました。

 一足先に白樺の木から下りて追いすがった咲耶子は、いましも施無畏寺の境内へ、ツウと隠れ入っていった黒衣の影を追いかけて、
「呂宋兵衛、呂宋兵衛!」
 と二度呼びました。
 意外な場所からやさしい女の声が響いたので、
「なに?」
 と、思わず足を踏みとどめて、ギョロッと両眼を振り向いたのは、異国の衣服に十字の念珠を首にかけた怪人。間違いなく、これぞ正真正銘の和田呂宋兵衛その人でした。
「や、汝は根来小角(ねごろこすみ)の娘だな」
「おお、仇であるそちとは、同じ空の下では生きられぬ咲耶子じゃ。伊那丸さまや、そのほかの方々のご加勢で、ここに汝をとり囲むことができた。うれしいぞ悪人! もう八方どこへも逃げる道はないぞえ」
「わはははは! おのれや伊那丸のような女子供に、この呂宋兵衛が思い通りにされるものか。斬るも突くも、おれは不死身だ。五尺とそばへ近寄ってみろ、汝の黒髪は火となって焼けただれるぞ!」
「やわか、そのような邪法の幻術などに惑わされるものか」
「ふふふ……その幻術にこりてみたいか」
「笑止! そんな広言、咲耶子には『胡蝶の陣』の守りがある」
「胡蝶陣? あのいたずらごときが、何になるというのだ」
「おお、そう言っている本人が、すでに胡蝶陣の罠に落ちていることも知らずに……ホホホホ、死にゆく者の小唄は聞き苦しいものよ――」
「女郎め! 覚えていろ!」
 カッと両眼を怒らせて、呂宋兵衛はふいに咲耶子の喉首を締めつけてきました。
 咲耶子も十分な用意がありましたので、ツイと振りほどき、帯の笛を抜くより早く、例の合図をサッと打ち振ろうとしました。しかし呂宋兵衛が強引に腕をかけて奪い取り、いきなり自分の力で縦横に、激しく吹き鳴らしました。

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