初級翻訳・神州天馬侠 第76話

吉川 英治

その唇へ、白蛇が銀色の鎌首を向けて、緋撫子のような舌をペロリと吐き出します。
すると、数十人の美女たちが笙(しょう)を合わせて吹くような、竹林の風――ザザザザザッ……とそよぎ渡ったかと思うと、竹童ははっきりと意識を取り戻し、パッチリとこの世の目を開きました。
――気がつくと、自分は誰かに抱かれています。
白衣に白い髭の老道士が、片手を彼の首に巻き、片手を胸に回して、自分の膝の上で抱きかかえながら、何やら良い香りのする仙丹(せんたん)を噛み砕いて、竹童の口へ口移しで飲ませてくれています。
「こりゃ、竹童、竹童……」
「あ?」
「気がついたか」
「オオ、あなたはお師匠さま!」
「うむ」
 そう頷いたとたん、老道士は竹童を膝からおろすと、すばやく七、八間(約15メートル)ほど離れてしまいました。
その人は、竹童が驚いて呼んだとおり、彼の恩師である果心居士(かしんこじ)でした。
自ら仙丹を噛んで口移しで飲ませてくれるほど優しかった居士も、竹童が正気にかえるやいなや、いつもの気難しく厳格な姿に戻っています。
「不覚者めが。この先も同じようなことがあるだろうが、敵に出会ったらかならずわしの教えを思い出すのじゃぞ」
「はい、面目次第もございません。
燕作というやつに捕まって、とうとう遅れをとりましたが、今度会ったら、きっと負けはいたしません」
「よし、早う行け」
「ですが、お師匠さま――」
 竹童は懐かしそうに近寄って、居士の顔を見上げながら言いました。
「いつか、人穴城へ火のついた松明を投げ込めと、お師匠さまから密策を授けられました時に別れて以来、その後お姿が見えませんでしたが、一体今日まで、どこにおいでだったのですか」
「おお、わしのいたところか。実は、そちだけには教えてやろう。わしはゆえあって、常陸(ひたち)の鹿島神宮、下総(しもうさ)の香取神宮の両神社に、七日ずつの祈願をこめて籠もっておったのじゃ」
「そして、お師匠さまのご祈願というのは?」
「伊那丸さまのご武運を占うに、どうも亀の甲羅の卦(け)が芳しくないので、前途のためにお祈りを立てたのだ」
「では、お師匠さまの占いによると、伊那丸さまには、甲斐源氏の御旗(みはた)を掲げて天下をお握りになるほどの運勢がないとおっしゃるのですか」
「いやいや、そうとも言えぬ。しかしそのことばかりは、ただ天のみが知ることであって、凡夫(ぼんぷ)の居士には予見ができぬ」
 と、果心居士は深くは語らず話を切り上げました。
「それはともかく、法師野(ほうしの)に陣を揃えている伊那丸君や龍太郎たちは、さぞかしそちの姿が見えぬのを心配しているであろう」
「ここで狼煙(のろし)を上げたきりですから、本当に心配しているかもしれません」
「うむ。少しでも早く、ご幕下へ駆けつけて、この上とも伊那丸さまのために働けよ」
「はい」
「わしも、もう一度鞍馬の奥にこもって、星座を観じ、天下の風雲をうかがい、機あらば現れ、変あらば退いて、伊那丸さまのために次なる策を立てる考えだ。
――では竹童、またしばらくそちにも会わぬぞ」
「あッ、お師匠さま――」
 竹童が声を上げて呼ぶうちに、居士の姿は風のごとく竹林を抜け、見えなくなりました。
再び法師野の方角から聞こえる法螺貝(ほらがい)の音――。
すでに夜は完全に明け放れ、紫や金色に染まった朝雲が、裾野の空を縦横に彩っていました。

二

 多宝塔を中心として、施無畏寺(せむいじ)の庭に陣を揃えた武田の軍勢は、手負いや討死の点呼を済ませたのち、伊那丸の命令一下、またも一部の兵卒が法師野の集落へ八方へと散らばっていきました。
まだ戦いがあるのか――と思うと、そうではありません。
武田の兵士たちは、呂宋兵衛らによって森に閉じ込められていた善良な民を第一に解放し、着る物がない者には服を与え、財産は家々に返し、宝物は寺に運び戻し、老人には慰めを、若者には働く場所を、女には希望を、子供には元気を与えて回るのです。
「オオ、あの旗印を見ろ、多宝塔の下にいらっしゃるおん大将をおがめ。あれこそ、この土地の昔のご領主、信玄さまのお孫、武田伊那丸さま――」
 と、集落の民は、生き別れた慈父に巡り会ったかのように大地に頭をこすりつけ、踊って狂喜し、嬉し涙にくれる者などさまざまで、まさにそこは、修羅の地獄から天の華が降る極楽浄土へと一変したような光景でした。一度自分の家へ帰った百姓たちは、またすぐに取って返し、名主である狛家(こまけ)の一族を先頭にして、
「これを、どうかおん若君さまにさしあげてくださいませ」
「八車の米と十駄の粟は、ご陣屋の兵糧としてどうぞお使いください」
「わたくしたち若い者は、なんなりと軍役をつとめますので、どうか何なりとお申し付けください」
と、たくさんの兵糧や軍用品を車に積んで引っ張ってきたかと思えば、家畜や野菜を持ってくる者や、力の奉仕を申し出る若者も現れました。さらには、しおらしくも、貧しい一家が喜びの餅をついて献納するなど、人々の真心の美しさと歓喜の声は陣屋の内外にあふれかえりました。それはまさに極楽の景色そのものであり、見るだけでただ涙ぐんでしまうほどでした。

こうして、民の平和を確認したうえで、伊那丸をはじめとする幕下の人々や千人の軍兵たちは、思い思いに陣を構え、はじめて朝の兵糧(食事)をとりました。
戦いに勝ったあとの兵糧は、その味がまた格別です。
そして今日は、昨夜から一睡もしていない兵士や馬たちのために、「陣休み(休息)」の触れ太鼓が鳴り響きました。

そんな中、しょんぼりとした顔で、力なく陣屋へと帰ってきたのが、鞍馬の竹童(たくどう)でした。
こんなに元気がない様子は、竹童としてはとても珍しいことです。
「おお、どうしたんだ竹童!」
「竹童が見えたぞ、竹童が戻ってきたぞ!」
さっきから兵士たちを四方へ走らせて、その行方を探させていた龍太郎(りゅうたろう)や忍剣(にんけん)らは、まるで栄光の勇士を迎えるかのように竹童の手をとり、狼煙(のろし)をあげた手柄を褒めたたえました。
特に伊那丸は、竹童が戻ってきたという声をきくと、自ら幕をまくって表へ飛び出し、人穴城での戦いからの功績を褒め称え、手ずから「般若丸長光(はんにゃまるながみつ)」の脇差(わきざし)を褒美として彼に与えました。
主君から刀を授けられるということは、一人前の武士として認められたも同然です。竹童も今日からは、立派な幕下のひとりです。
体こそ小さいものの、押しも押されもせぬ伊那丸の旗本(はたもと)です。
しかも、いただいたその刀は、武田家伝来の名刀「般若丸尺七、八寸の丁字(ちょうじ)みだれ」。抜くにも手ごろで、斬るにも自在な反り加減。あの泣き虫の蛾次郎(がじろう)が自慢している、あけびのツルを巻いた山刀などとは質が全く違います。
これからは竹童も、鞍馬山にいた頃のようなただの棒切れを捨てて、一人前の大人と同じように、美しい刃で敵に向かうことができるのです。
もう、足の速い燕作(えんさく)のようなやつだって、一刀のもとに斬り捨てることができます。

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