初級翻訳・神州天馬侠 第79話

吉川 英治

小幡民部(おばたみんぶ)も駆けつける。
たちまちのうちに陣々は大騒動となり、大将の伊那丸も幕を払ってやってきたが、閣上の呂宋兵衛は、いちはやく屋根の上へ飛び移り、九輪(くりん)の根元に身をかがめてしまったので、遠矢を射かけるすべもない。
「あれあれ、呂宋兵衛は幻術に長けた曲者、どう逃げるかも知れませぬ。みなさま、早くお手配をしてくださりませ」
 と、うろたえまわる軍兵のなかに混じって、しきりに叫んでいるのは咲耶子の声らしい。
十数人の軍兵は同時に、施無畏寺へ塔の梯子を取りに走り出した。
それを待つのももどかしいと思ったのか、例によって遅れをとらない木隠龍太郎は、バラバラと多宝塔の裾に駆け寄ったかと思うと、一階の欄干にひらりと立って、えいッと叫んだ気合とともに、千本廂(せんぼんびさし)の瓔珞(ようらく)へと飛びついた。
「オオ、やったな、木隠!」
 と、こちらの一同は、その機転に感嘆の声を上げたが、瓔珞の飾り座金が腐っていたと見えて、龍太郎の体が吊り下がるとともに、金鈴や青銅の金物と一緒に、彼の体はドーンと大地に落ちてしまった。
「ウーム、無念」
 再び立ってよじ登る工夫をしていると、朱柄の槍をひっさげた小文治が、すっくとそこに立って、槍の石突きを勢いよくトンと大地につくやいなや、
「やッ――」
 と叫んで、見事に一階の屋根の廂(ひさし)へ飛び上がった。
そしてすぐに槍を引こうとすると、
「待ったッ」
 と九尺柄のなかごろに、龍太郎がすがりつく。
「おうッ」
 と、上から小文治が力を込めると、龍太郎も息を合わせて、槍の柄とともにポンと跳ね上がった。
たちまち槍を頼りに二階へ上がり、三階の欄干までよじ登って、呂宋兵衛を監禁していた六角室を見ると、一匹の蝙蝠が死んでいるほか、そこには何者の影もない。
「あ! いよいよ逃げたのは、あいつに違いない」
「それッ、この上だ」
 と二人は東の隅の欄干に足をかけたが、そこから九輪の建っている塔のてっぺんへ登るには、どうしても千本廂に吊ってある瓔珞に身を伸ばして、ぶら下がるより道がない。
ところが、それを頼りにすることは一階の時の失敗があるので、さすがの小文治も二の足を踏んだが、龍太郎は何の恐れもなく、やッと欄干から瓔珞の根へ飛びついた。
下で見上げていた伊那丸をはじめ、あまたの勇士も思わず肝を冷やしたが、今度は瓔珞も落ちず、龍太郎も完全に棟木へ片手をかけることができた。
これこそ、先ほどは瓔珞の頑丈さを頼りにして不覚をとったが、今度は果心居士相伝の「浮体の法」を十分に行っているためである。
その代わり、龍太郎は最後の頂上へ登るにはだいぶ手間取っている。
片足を瓔珞の鈴環にかけ、そろそろと手を伸ばして屋根の青銅瓦に半身ほど乗り出したところで、小文治の差し出した槍をつかんでやる。
巽小文治は、もとより果心居士の門下ではないから、浮体の息を知らない。
したがって、ただ度胸の早業である。
槍の一端を塔の角金具にひっかけ、もう一方を龍太郎につかんでいてもらって、スッと瓔珞の鈴環へ足をかけると、二人分の重みがかかっては危ないので、龍太郎はすばやく上へ這い上がった。とたんに、雨とも見えぬ空模様なのに、塔の先端にある九輪(くりん)の根元から、ザーッと滝のような水が流れ落ちてきました。塔の四面はまるで水晶のすだれを掛け並べたかのようになり、龍太郎も小文治も、その水の勢いで押し流されそうになりました。

「呂宋兵衛(ろそべえ)の妖術だ! 本物の水じゃない、小文治殿、ひるむなッ」

龍太郎は果心居士(かしんこじ)の門下にいただけあって、幻術や忍びの技には多少の心得があります。いま九輪の根元から吹き出した水勢も、呂宋兵衛の「水龍隠れ」の術だと見抜いた龍太郎は、そう注意を促すと、ひるむことなく青銅瓦の大屋根へと踏み上がりました。

そして、気を天に集中させ、大地に響き渡るほどの声で叫びました。

「やあ、奸賊(かんぞく)和田呂宋兵衛! もはや逃げ場はないぞ。神妙に木隠龍太郎の縄目を受けろ!」

「だまれ、青二才! お前たちごときの手に掛かる呂宋兵衛ではないわ。うかつに近づいてみろ、この頂上から蹴落として、木っ端微塵にしてくれる!」

水術の印を解くと同時に、はっきりと姿を現した和田呂宋兵衛。彼は九輪の銅柱をしっかりと抱きかかえ、夜叉のように突っ立っていました。

「おのれッ――」

龍太郎は片膝をつき、戒刀の鞘を横に払うと、銅の九輪ごと断ち切らんとばかりに、呂宋兵衛の足元を狙って薙ぎ払いました。
同時に、波打つような瓦の上へヒラリと飛び上がった巽小文治は、龍太郎が斬りつけたのと同時に、朱柄の槍をスッと繰り出し、呂宋兵衛がかわしたところを突き刺そうと身構えました。

紅帆呉服船

一

下では、「あっ」と手に汗を握る諸軍の声が上がりました。伊那丸をはじめ、幕下の面々、そして竹童や咲耶子も、塔の一点に目を凝らし、ハラハラしながら息を殺して見守っています。

その時でした――大変なことが起きました。
三階の屋根瓦から塔の九輪のてっぺんへ、雷獣のごとくスルスルと這い上がった和田呂宋兵衛が、「おうッ……」と何か叫んだかと思うと、片手をブンと振り回したのです。

すると――またしても彼の幻術でしょうか。ふいに、サッと一陣の風が吹き抜けました。
その時、明け方の天空から、思いがけない人声が聞こえてきました。

「いけねえ、いけねえ! おいクロ、こんなところへ降りちゃいけねえ!」

言い終わる間もなく、斜めから飛んできた真っ黒な怪物がありました。
間違いなく鷲です。竹童の盗まれたクロでした。そしてその背に乗ってわめいているのは、菊池半助に怒鳴られて遠江(とおとうみ)の国をすっ飛んできた、泣き虫の蛾次郎(がじろう)でした。

鷲は見る間に九輪をかすめました。
一大事!
巽小文治は再び槍を構え直し、仰向けざまに「ヤッ」と突き上げましたが、鷲の羽風に吹き倒されてしまいました。もう一方の龍太郎が九輪の根元から放った戒刀の切っ先も、敵の体にまでは届きません。

その瞬間、呂宋兵衛は飛んできた鷲の背中へ飛び移りました。――まるで電光石火、瞬きする間の出来事です。
塔上の二人の勇士と、塔下の三軍が「あれよ」と驚き叫んだ時には、万事休す。蛾次郎と呂宋兵衛を乗せた大鷲の影は、まっしぐらに三国山脈の雲の彼方へと消えていきました。

「しまった!」

伊那丸以下の者たちから漏れたのは、ただこの嘆息ばかりでした。
その中で竹童だけは、陣屋を駆け出して、「おお、クロだ、クロだ! おいらのクロだ!」と空に向かって叫びながら、追いつくはずもない大鷲の行方へ向かって無我夢中で走り出しました。

二

さて、驚いたのは蛾次郎です。
多宝塔のてっぺんを通り過ぎた途端、変な奴が自分の腰に飛びついてきたと思ったのですが、なにしろ鷲が飛んでいる最中なので、振り返ることも話しかけることもできません。
目の下にクルクルと回る山や峠、町や村をいくつも見て、およそ半日ほど飛んだころ、ようやく青々とした海辺へと降りました。

「あぁ、お腹がペコペコだ。

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