初級翻訳・神州天馬侠 第82話

吉川 英治

どさくさに紛れて、甲州から信濃の国を我が物にして、こっそり領分を広げてしまった。……だが、ゆくゆくの天下取りは、どうしても秀吉だろうな。北ノ庄の柴田勝家、こいつも指をくわえてはいまい。今に秀吉と、のるかそるかの大勝負だ。……うむ、のるかそるかは俺も同じこと、手ぶらで都入りも気が利かない。手近なところで何か一つ、秀吉のやつに取り入るお土産でも考えようか……」

その時、コツコツと扉を叩く音がしました。

「おい、兄貴! いねえのか、寝ているのか!」

「誰だ」

「龍巻だ。開けてくれ」

「いや、これはすまなかった」

窓を離れて重い扉をギーと開けると、待つ間も惜しい勢いで飛び込んできたのは九郎右衛門でした。片目を押さえたまま、呂宋兵衛の寝台の上へゴロリと仰向けに寝転がりました。

「どうしたんだ、耳のほうへ血が垂れてくるではないか」

「すまねえが兄貴、この左の目に刺さっている物を、そっとやわらかに抜き取ってくれないか」

「いいとも。だが、棘(とげ)でも刺したのか?」

「針だ。針が刺さってるんだ」

「針?」

「うん。ゆうべ沖の客船から四、五人の旅人をさらってきて、この下の穴蔵へ放り込んでおいたんだ。そこで今、手下どもと一人一人の持ち物や身の皮を剥いでいると、その中に縛られていた婆めが、いきなり俺の顔へ針を吹き付けやがったんだ」「あ、痛っ……。とにかく早く抜いてくれなきゃ、話もできねえ」

「動いてはいけないぞ。今、洗い薬を作っているからな」

「頼むから、早く……」

「よし、じっとしていろ」

多少、異国の医術にも心得があるらしい呂宋兵衛は、口を使って龍巻の瞳に深く突き刺さっていた針を抜き取ると、すぐに洗い薬を塗って落ち着かせました。

すると、四、五人の手下が扉の隙間から顔を出して叫びました。

「お頭領!」

「なんだ」

「いよいよあの船へ、角鹿(つぬが)の町の和唐屋(わとうや)から一万両の銀を送り込みましたぜ。船積みするところまで、確かに見届けてきました」

「そうか!」龍巻は苦痛も忘れ、目を輝かせました。「して、厦門(アモイ)船はいつ纜(ともづな)を解くつもりだ?」

「いつどころじゃねえ、もう出船の支度をしている様子なんで、風の加減じゃ夕方にも港を離れるかもしれませんぜ」

「じゃあ、こうしちゃいられねえ。てめえたちは穴蔵にいる子分を呼び上げて、すぐに沖の鼻へ船を回して見張っていろ。俺はあとから早船で追いつくから」

「がってんです。じゃあ、お頭領もすぐに来てくださいよ」

手下たちはドカドカと階段を降りていきました。

「大そうな仕事じゃないか」

呂宋兵衛は、いまの話でだいたいの事情を察しました。

「この角鹿へ煙草を売り込んだ厦門船が、一万両の売り上げを積んで帰るのを、玄海灘あたりで襲おうという企てだな。そこで今度はしばらくこの仲間屋敷へも帰らねえから、兄貴はここで冬を越すなり、また店を閉めて京都へ立つなり、好きにしてくれ」

「ちょうどいい。実は俺も、いつまでもここにのんびりしていられないからな。行きがけの駄賃に北ノ庄の様子を探り、それを土産に都入りして、うまく秀吉の懐へ飛び込むつもりで考えていたところだ。すぐ俺もここを立つとしよう」

「すると当分お別れだが、秀吉公に取り入ったら、俺も船隊の侍大将か何かになれるように、うまく手はずを整えてくれよな」

「野武士だろうが海賊だろうが、人を選ばず味方にするのが秀吉だからな。俺がうまく売り込んで、お前を『龍巻壱岐守(いきのかみ)』くらいにはしてやるよ。まあ、それを楽しみにしているがいい」

「あ、厦門船が出やがった!」

窓から港を眺めていた龍巻は、にわかに立ち上がりました。そしてせわしなく別れを告げると、部屋から姿を消しました。海賊の巣である異人屋敷の裏手から、一艘の小舟を矢のように漕ぎ出していくのが見えました。

(ははあ、紅帆船は向こうの岬の陰に隠れているんだな)

それを見届けた呂宋兵衛も、伴天連(バテレン)の黒服をまとい、首に十字架をかけて、懐には短刀を忍ばせました。身支度を終えてバタバタと窓を閉め、家を出ようとしたその時、門口でふと一つの忘れ物を思い出しました。

「針……針……そういえば、あの針が刺さっていたっけ……」

呪文のように呟くと、クルッと踵を返し、薄暗い石段をスルスルと地の底の穴蔵へと降りていきました。

二

陰湿な穴蔵部屋。手探りで近寄ると、鉄格子の錆がザラザラと落ちてきました。

すると、「ウーム……」というかすかなうめき声が聞こえました。海賊たちに連れ込まれた旅人らしい影が、ムクムクと身を起こし、人の気配におびえています。

「おい、おい」呂宋兵衛は鉄格子から覗き込みました。「もしや、お前は富士の裾野にいた蚕婆(かいこばばあ)ではないか?」

「えッ!」

婆はびっくりしましたが、縛られているのでそばへは寄ってこられません。

「わ、わたしを知っているのは、いったい、だ、誰だい……」

「人穴の呂宋兵衛よ」

「ひえッ、呂宋兵衛さま? ああありがたい、助かった! 海賊の龍巻が戻ってこないうちに、早くここから出しておくれなさい」

「どうしてまた、お前がこんなところへ連れ込まれたのだ?」

「どうしてだって、この苦労をするのも、みんなお前さんに味方をしたためじゃないか。人穴城から法師野へ逃げて、落ち着く間もなく伊那丸の夜討ちに遭い、やっと北陸道まで逃げ延びたと思ったら、今度は海賊に捕まってこのありさまだよ」

「やっぱり、俺の想像が当たっていたか」

「悔しいから龍巻の目に針を一本吹いてやったんだ。そうしたら『今に嬲(なぶ)り殺しにしてやるから覚えていろ』と、恐ろしい血相で二階へ駆け上がっていったが……」

「その龍巻や手下どもは、急に船を出すことになって、お前をここへ置き去りにしていったぞ」

「すると、わたしを餓死させる気だったんだね。呂宋兵衛さま、とにかく早く出してくださいまし!」

「よし。その代わりに、これからは俺のために火の中へでも水の中へでも飛び込む覚悟はあるか?」

「ごめん、ごめん。わたしはもう大きな欲のない身だから、また裾野で蚕の糸でものんきに引きたいよ」

「ふん、それならいっそ、死ぬまでこの穴蔵で隠居をしていろ」「たぶんもう二、三年は、この屋敷の戸を開けにくる人間はないはずだからな」

呂宋兵衛が立ち去ろうとすると、蚕婆は悲鳴をあげました。
結局、呂宋兵衛にいろいろな誓いを立てさせられて、ようやく穴蔵から助け出してもらうと、婆は頭に黒い頭巾をかぶり、体にも黒い布をまとわされました。まるで女修道士のような姿になり、呂宋兵衛の後ろをあてもなくついていきました。

それから数日後のこと――。
角鹿の浦から十六、七里ほど離れた、足羽御厨(あすわのみくりや)の北ノ庄(今の福井市)の城下に、二人の偽伴天連(バテレン)が現れ、さかんに奇跡を起こして見せたり、説教をしたりしていました。

そんなある日のことです。
濠(ほり)の端に立って、なにやら祈祷を捧げている伴天連を見かけて、美しい夫人が乗っていた駕籠(かご)を止めさせました。

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