「かならず――合図をまちがえてくれるなよ――」
くれぐれも言い聞かされた龍太郎の言葉が、空の上なる竹童の耳に、いまもはっきりと聞こえる心地がする。
――とその瞬間である。
竹童は、すぐ真下の地上に一点の火の塊を見いだした。
枯れ草を焼く百姓の野火か、あるいは木こりの焚いた焚火であろうか、とある原の真ん中あたりに、チラチラと赤く燃える炎があった。
「しめた」
竹童は、やっと片手をふところへ入れて、龍太郎から渡されていた狼煙筒(のろしづつ)を固くつかんだ。
そして、鷲の腹がちょうどその火の真上へ舞いめぐってきたとたんに、ポーンと下へ投げ落とした。
スーッと斜線をえがいて落ちていく小さい物体の行方に、竹童は祈りを送った。
しめた! 狼煙の筒は、うまく地上に見えるその炎の輪の中へ落ちた。
と思った瞬間、轟然たる青天の霹靂(へきれき)。
筒の中の火薬が破裂して、ドーン! とすさまじい火と灰と、炸裂した物体の破片を舞い上げた。
合図の狼煙! それは一倍ものすごい響きをもって、寒松院の並木にいる伊那丸、忍剣、龍太郎の耳までをつんざいていったことは確かである。
だが――? その瞬間に、びっくりした大鷲は、雷の気に触れて天空をそれたように、パッ! と一陣の風を切って、竹童と蛾次郎を乗せたまま、いずこともなく飛び去ってしまった。
呂宋兵衛の奥の手
一
さて――。
寒松院の松並木――ここもまだ、朝霧がこめていた。
四条五条へ花売りにでる大原女(おおはらめ)が散らしていったのであろう、道のところどころに、連翹(れんぎょう)の花や白桃の小枝が、牛車のわだちにも踏まれずに落ちている。
並木の梢(こずえ)には高々と春の百鳥がうたい、大地はしっとりと露を含んで、なんとも言えないすがすがしさである。
そんなところへ、霞の中からポカリと浮かび出た一列の人影がある。
寂光浄土の極楽へ地獄の獄卒どもが練り歩いてきたように、それは殺風景な行列であった。
今日、桑名の陣を目指して天ヶ丘をくだってきた、和田呂宋兵衛の一行である。
例の鎖駕籠(くさにかご)をいと厳重に警護して、随行には軍師の昌仙、早足の燕作、吹針の蚕婆、そのほか五十余名の浪人が、鳴り物こそ使わないが、いわゆる「一鼓六足(いっころくそく)」の陣歩きで、ピタッ、ピタッ、ピタッ、ピタッ……と足並みをそろえてくる。
先頭に立ったのは三人の野武士である。行く手をさえぎるものがあればと、刀の柄に手をかけたまま歩いてくる。
その次には、黒い柄の九尺の槍を横に持ち、鋭い穂先をならべて歩く者が七人。
――その次が、和田呂宋兵衛。黒い衣に南蛮風の刀を腰に帯び、いかにも意気揚々とした様子であった。
「追分へ出たら、左だぞ、左だぞ。
少しばかり道が遠回りになっても、なるべく裏街道を選んで行けよ。
――途中でほかの大名に出会ったら、同格の会釈をしてかまわないから、羽柴筑前守(はしばちくぜんのかみ)の使いだと名乗れ。関所にかかったときは、武器を伏せろよ! いいか、関所で武器を伏せるのを忘れるなよ! そのほか、桑名のご陣につくまでは、道々話をかわすことはならぬ」
列の前後へ向かってこう号令したが、命令を下す自分自身は軍律もなにもあったものではない。黒い布の隠し袋から陶器製のパイプを取り出すと、そこへ葉煙草を詰め、歩きながらプカプカと紫色の煙をくゆらせはじめた。
しばらく行くと、また呼んだ。
「昌仙、昌仙」
「はッ」
と、後ろの方で答える。
丹羽昌仙(にわしょうせん)と早足の燕作(えんさく)とは、例の鎖駕籠(くさにかご)の両脇に付き添っていた。
「京の大津口から桑名まで、およそ何里ほどあるだろう」
「さようですね……」
昌仙は歩きながら懐中の絵図を広げて見て、
「二十九里あまり……まあ、ざっと三十里でございます。ですので、桑名のご陣へ着きますまでは、あと三日ほどかかるかと」
「三日は少しばかりかかりすぎるな。どこか間道を通って、二日ぐらいで着ける工夫はないものか」
「なにしろ途中には、大津の関所、松本の渡し舟、鈴鹿山の難所などがございますので……」
と、しきりに懐中絵図の説明をしていたが、そのとき、列の先頭から「あッ!」という声が上がった。
先頭にいた野武士三人の手から、ふいに虹のような陣刀がひらめいたのだ。
と思うと、その三人は電光石火の瞬間に倒れ、すさまじい一陣の風を巻き起こして、何者かが向かってくる。
「おお!」
と、五十余名の大勢がシタシタと足を引き、前を見ると、霧の深い松並木のかげから、忽然とおどり出た年若い怪僧がいた。
染衣(そめごろも)の袖をたすきのように後ろでたくし上げ、手には禅杖(ぜんじょう)を振り回して、荒野を走る獅子のように飛び込んできたのだ。
「おのれッ!」
叫ぶやいなや、第二段の浪人組七人が、黒柄の九尺槍の穂先をサッと若僧の全身に向け、リラッ、リラッ、リラッ、と突きを繰り出して八方から取り囲んだ。
二
「や、や?」
と、呂宋兵衛はくわえていた陶器のパイプを口から落とした。
「おう! あれは武田方の加賀見忍剣(かがみ・にんけん)だ。
さては勝頼を奪い返すために、伊那丸をはじめ、ほかの連中もこの近くに身を潜めているな。昌仙、昌仙! 燕作も油断するなッ」
言うも早いか、その伊那丸が、いきなり横の草むらからバラバラとおどり出し、木隠龍太郎(こがくれ・りゅうたろう)とともに刀の柄を跳ね上げ、呂宋兵衛の前にぬっと立ちはだかった。
「野武士ども待て、しばらく待て。無理に押し通ろうとすれば、命がないぞ」
「おッ――おのれは武田伊那丸に龍太郎だな。
秀吉公の威勢も恐れず都へ入り込むとは、不敵なやつ。この呂宋兵衛の手並みにも懲りず、わざわざ富士の裾野から討たれに来たか」
内心では肝を冷やしながらも、ひるんだ姿を見せまいとする呂宋兵衛は、野太い声を張り上げて刀へ手をかけた。
「やかましいッ!」と木隠龍太郎。
「はるばる若君がここへお越しあそばしたのは、お父上の勝頼公をお迎えするためだ。その鎖駕籠の中に身をひそめておられるお方こそ、紛れもなく勝頼公と見た。呂宋兵衛、おとなしく渡してしまえ」
「何をばかなことを。
たしかに鎖駕籠の中には、これから桑名のご陣屋へ護送するひとりの落武者が入っている! だがよく聞けよ! おれも人穴城にいた野武士と違って、今では南蛮寺を守護する羽柴家の呂宋兵衛だぞ。なんで勝頼を貴様らの手に渡すものか」
「渡さぬとあらば、なおのこと好都合だ。木隠龍太郎や忍剣が力をあわせて、貴様らをこの松並木の肥やしにしてやる」
「わはははは! 片腹痛い、そんな寝言は聞いていられねえ。
オオ! 面倒だが、桑名への行きがけの駄賃に、貴様らの生首を槍の先に突き刺していくのも一興だろう。それッ、この虫けらどもを踏みつぶしてしまえッ!」
剣を払って後ろの軍勢をけしかけようとしたそのとき、伊那丸の凛とした声が響いた。
「ひかえろッ、雑兵ども!」
機山大居士(きざんだいこじ)・武田信玄の孫として、天性備わった威容には、人を圧倒する力があるのだろうか。
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