初級翻訳・神州天馬侠 第109話

吉川 英治

すると――伊那丸が、
「ごめん――」
と目礼をして、真っ先に白駒の金鞍にヒラリと乗る。つづいて忍剣と龍太郎も、波に月兎の鞍を置いた黒鹿毛の背へヒラリとまたがると、キッと手綱を引き絞り、互いに振り返りながら、
「裾野以来、こうして馬上になるのは久しぶりだなあ……」
と、微笑み合いました。
やがて、真っ暗な瀬田の唐橋を、小橋三十六間、大橋九十六間と、粛々と渡っていく一行の松明が、あたかも火の百足(むかで)が這っていくかのように見えました。

蜘蛛の子と逃げ散る餓鬼

一

夜も昼も、伊勢の空は、もうもうと戦塵(せんじん)にくすんでいました。
七万の兵を率いて滝川攻めにかかった秀吉は、あの無類の根気と熱意、そして智謀をめぐらせて、あっという間に亀山城を落とし、国府の城を抜き、さらに敵の野陣や海辺の軍船を焼き払って、一益の本城である桑名の砦へと肉迫していきます。
それが、天正十一年、三月上旬のことです。
春となれば、焼蛤(やきはまぐり)の汐の香りに、龍宮城の蜃気楼が立つといわれる那古の浦も、今年は焼け沈んだ兵船の船板や、軍兵の屍、そして数えきれないほどの矢や楯が、洪水のあとのように浮いており、どんよりとした赤銅色の太陽が、その水面に何の反射も与えずに照りつけていました。
陸を見れば、泊、八幡、白子の在所、いずれを見ても荒涼たる焼け原と化しており、哀れなことに、並木のあちこちには、逃げる途中で投げ捨てた人々の家財道具が恨めしげに散乱していました。ここにも、斬り合いの血潮や折れた槍、生々しい片腕などが転がっており、見る者の目を背けさせます。
すると、この凄惨な戦場の地獄へ、血を舐める山犬のように、のそのそと歩き回る人影がありました。
「おっ、こいつの差している刀はすばらしいぞ」
「しめた、懐から金が出てきたぞ」
「やあ、この陣羽織は血にも汚れていない。どれ、こっちへいただいてやろうか」
ざわざわと、そんなことを囁きながら、あちらこちらに倒れている武士の武具や持ち物を剥ぎ取っているのです。
ああ、戦国の餓鬼ども! 戦場の跡で白昼堂々と盗みを働く野武士の餓鬼! その一団でした。
「おい! もういい加減にしておけ。あまり稼ぎすぎると、今度は道中の荷物になって、釜をかぶって歩くような目にあうぞ」
すると、この野盗の頭と見えて、太い声が土手の上から響きました。
ひょいとそこを見上げると、臥龍(がりゅう)のように這った松の木の根っこに、手下が稼ぐのをニヤニヤと眺めている者がいました。
「もうたくさんだ、たくさんだ。そういっぺんに欲張らなくても、近頃は行く先々に戦がある世の中だ。まごまごしている間に、秀吉の陣見回りが来た日には大変だ」
また、こう言ってそこでスパスパと煙草を吸っていたのは、他ならぬ和田呂宋兵衛、そして他の二人は蚕婆(かいこばば)と丹羽昌仙でした。
これで事情はおよそ察しがつきます。秀吉の御感に預かって出世の階段を飛び上がるつもりでいた勝頼探索の結果が、あの通りまずい羽目になったうえに、命令以上にでしゃばったために、軍律によって陣屋を追放されたというのです。そこで呂宋兵衛は、持ち前の盗賊の性分を出し、これから他国へ逃げる道中の稼ぎとばかりに、こうして歩き回っているのでしょう。
いくら捨て鉢になったとはいえ、よくこんな残忍な盗みができるものだと思いますが、根っからを考えれば、富士の人穴に巣を構えていた時から、和田呂宋兵衛にとってこれが本業なのです。
「頭領、思いがけなく金目のものがありましたぜ」
と、二、三十人ほどの手下がそこへ、剥ぎ取った太刀や陣羽織や金銭を積んで見せると、呂宋兵衛は土手の上からニタリと横目で眺めて、
「そうだろう。この辺りに討ち死にしている連中は、おおかた滝川一益の家来で、つい昨日までは桑名城で贅沢三昧な暮らしをしていた者ばかりだからな。……うむ、それはともかく、もう南蛮寺も秀吉のやつに取り上げられてしまったから、京都へ戻ることはできねえ。一体これからどこへ指して落ち延びたものだろう?」
と、昌仙と蚕婆の方に相談を持ちかけました。
「また、富士の人穴へ帰ろうじゃないか」
と、蚕婆は常に思っていることをこの際にもちだし、あの広野の住み心地の良さや、安心なことを数え上げました。
「そうよ、もうほとぼりも冷めたから、久しぶりに富士の姿も拝みてえな」
「だが――それはまだよろしいまい」
と言ったのは丹羽昌仙でした。野武士の中にいても軍師格なだけに、この者は少し厳めしく構え込んでいます。
「なぜだい?」
「なぜと申しても、小太郎山の砦には、伊那丸の幕下である小幡民部、また、頭領を親の仇と狙っている咲耶子などが、厳しく裾野を見張っております」
「ううむ、なるほど。すると、俺がまた人穴城へ入り込むと、さっそく小太郎山から奴らがドッと攻めかけてくるわけだな」
「火を見るよりも明らかな話でござる」まず、もうしばらく、こっちの力がじゅうぶんに整うまでは、裾野へ入ることは見合わせたほうがいいように存じます。」
「じゃあひとつ、北国路へでも行って、あの敦賀津(つるがづ)の海に紅がら帆を打ち立てている、龍巻の九郎右衛門と合体して、今度は海辺のほうでも荒らしてやるか。」
「イヤイヤ、それもダメなことで。」
と、昌仙は言う下から首を振って――
「もうそろそろ北国街道の雪も溶けてまいったはず。春となれば、秀吉と弔(とむらい)合戦をやるべく意気込んでいた柴田勝家が、北ノ庄から近江路にかけて、びっしりと軍勢を揃えているでございましょう。」
「じゃ、そっちへも行けねえとしたら、いったいどこへ落ち延びたらいいのだ。」
「まず、いまのところ静かなのは、東海道でございますな。」
「フーン。すると徳川家の領分だな。」
「さよう。近ごろ家康と秀吉とは、互いに珠を争う龍虎のかたち。その仲の悪いところを突き込んで、今度は家康の懐へ食い入る算段が第一かと考えます。」
「そううまくこっちの注文にハマるかな。」
「いくら狡猾(こうかつ)な家康でも、策をもって乗せれば、乗らぬものでもございません。実はその用意のために、早足の燕作(えんさく)を物見にやってありますゆえ、やがてそろそろここへ帰る時刻……」
と、話ついでに、伸び上がって向こうを見ていると、オオその燕作であろう、竹の子笠に紺無地の合羽、片袖をはねて手拭いで拭き拭き、得意な足をタッタと飛ばして、見る間にここへ駆けついた。

二

「やあ、ごくろう、ごくろう。」
と丹羽昌仙、土手の上から飛び降りて、
「して、どうだった。伊那丸(いなまる)の様子は?」
「やっぱり、東海道から裾野へ入って、それから小太郎山へ帰る道順をとるらしゅうございます。」
と、さすがに早足、あれほど韋駄天(いだてん)と走ってきたにもかかわらず、息も切らさずこう答えた。
「そうか、やっぱりこっちの想像どおり、思うつぼにハマったわい。」
「ところが昌仙さま、あまり思うつぼでもありませんぜ。というなあ、秀吉の指図で、瀬田まで迎えに出てやがった軍勢があるんで。」
「ほ……秀吉が? フーン猿面め、如才ないことをやりおって、うまく伊那丸を抱き込もうという腹だな。

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