初級翻訳・神州天馬侠 第117話

吉川 英治

「うむ」
 と、卜斎一流の妖気がみなぎる含み気合いでそれをはねのけ、壁ぎわへ身を貼りつけると、
「おお、おまえは鞍馬の竹童だな」
 と、らんらんと瞳を射て、こちらの影を透かしました。
 ハッと思って、竹童は自分の顔に気づきました。卜斎の鉄拳を食らった瞬間に、仮面は二つに割られていたのです。そして二つに割れた仮面が、畳の上に片目をあけて嘲笑っています。
「なんでおいらの寝ているところをぶんなぐった。裾野にいた鏃鍛冶、顔は知っているが、恨みを受ける覚えはない」
「では何か、今この方が宮内と話をしていたのを盗み聞きしていたのは、きさまではなかったのか」
「それは向こうに寝ていた泣き虫の蛾次郎だろう」
「や? ――蛾次郎もここにおったか。ちっ、ちくしょうめ」
 と、その方へ走りだそうとしましたが、卜斎は何かをふと思い直したかのように、にわかに大刀の柄をつかんでジリジリと竹童の方へ寄ってきながら言いました。
「いやいや、たとえ恨みがあろうとなかろうと、ここへ俺が潜伏しているということを知られた以上は、もうきさまも助けてはおけない」
「なにッ」
 竹童も身構えを直しました。
「秀吉の陣へ内通されれば、八風斎の運命にかかわるのだ」「気の毒だが、命はもらうぞ。……だめだ、だめだ! 鞍馬の竹童よ、二寸、三寸と後ずさりしても、八風斎の殺気みなぎる剣から逃げられるものか。立って逃げれば、後ろから袈裟懸けに一太刀浴びせてやる。……じっとしていろ。運が悪かったとあきらめて、そのままそこに、じっとしていろ」

八風斎は、青光りする業物をスリリと抜き放ちました。戦国時代の猛者が好んで腰に差した、胴田貫(どうだぬき)の厚重ねという刀です。竹童のような細い首なら、三つや四つ並べておいても、やすやすと斬り落とせそうな名刀でした。

その刀を抜いて、鼻かけ卜斎はダラリと右手に下げました。そして、おそろしい威圧感のある声で「じっとしていろ!」と怒鳴るなり、ズカリと踏み込んできて、般若丸を構えていた竹童の小手を横から蹴り上げました。その足の力はすさまじく、竹童の手から般若丸はあっけなく離れ、ガラリと向こうの方へ飛んでいってしまいました。

「これでおれの腕前はわかっただろう。じたばたするな、無駄なことだ。……じっとしていろ! じっとしていろ! 痛くないように斬ってやる」

そう言いながら、胴田貫の切っ先をゆっくりと持ち上げ、ヌッと竹童の瞳へ一直線に向けたかと思うと、パッと風を切って卜斎の頭上にふりかぶりました。
こんな状況で、じっとしていられるはずがありません。竹童はグッと後ろへ身を反らしましたが、落とした刀には手が届かず、かといって立って逃げれば、自分から卜斎の剣に飛び込むようなものです。

絶体絶命。
もう逃げる手立てはなく、この体は鮮やかな血を浴びることになるのか――。そう思わず胸を抱きしめたとき、その手のひらに、さっきの火独楽(ひごま)が触れました。

***

お小姓とんぼ組

一

賤ヶ岳の戦いでの総崩れから、敵である秀吉方の目をかすめ、ようやく俗世を離れた竹生島へたどり着き、旧知の菊村宮内を頼ってきた柴田方の落武者、上部八風斎こと鼻かけ卜斎。
草木のそよぎにもビクビクと怯え、心休まることのない敗軍の身で、なんとか身をかくまってもらおうと、弁天堂の神主である宮内の社家でヒソヒソと密談を交わしていました。そこへ、よせばいいのに、でしゃばりで泣き虫の蛾次郎がわざわざ寝床から這い出してきて、盗み聞きをしていたのです。それに気づいた卜斎は、おそろしい形相で蛾次郎を奥へ追い回しました。

「南無三――もとの主人の卜斎だったのか」と仰天した蛾次郎は、すばやくその場から逃げ出しました。
けれど、その災いは、何も知らずに寝込んでいた鞍馬の竹童の身にふりかかりました。自分たちの潜伏場所を知られた以上、秀吉側に密告される恐れがある。「きさまも生かしてはおけぬ。目をつぶって覚悟しろ。逃げようとしても無駄だぞ」と、卜斎はおそろしい殺気を放ち、胴田貫の大刀を竹童の目の前にふりかぶったのです。

「――じっとしていろ! じっとしていろ! 痛くないように斬ってやる!」

卜斎の足の親指が、蝮のようにジリジリと畳を噛んで詰め寄ってくるのに、どうして鞍馬の竹童が、その死の剣をじっと待っていられましょうか。そんな無意味な殺戮に甘んじる理由など、どこにもありません。
とはいえ、身を守る唯一の愛刀・般若丸は、先ほどの足蹴ではね飛ばされてしまい、拾い上げて立ち上がる時間もありません。
しかも、一瞬一瞬が命取りとなる危機が目前に迫っています。思わず額や脇の下から冷や汗が吹き出し、ハッと息を呑みました。その絶体絶命の瞬間、ふと指先に触れたのは、先ほど菊村宮内からもらって懐に入れていた、あの希代の火独楽でした。

二

宵の口に、神官の菊村宮内が竹童と蛾次郎を並べて座らせ、蛾次郎には青い水独楽を、竹童には赤い火独楽を与えました。その時、二人に言ったことには、これは竹生島の弁天に古くから伝わる奇跡の独楽だとのことでした。
宮内は、この独楽を使って、仲の悪い二人の少年を仲直りさせようとしたのです。だからこそ、その奇跡の力についてはあまり詳しく語りませんでしたが、火独楽も水独楽も、どちらも何らかの不思議な力を持っていることは間違いありません。

しかし、今の竹童には、一秒の猶予もない危機が迫っています。
もちろん、卜斎が大刀をふりかぶった瞬間に懐の独楽をつかんだとはいえ、深い冷静な思慮があってのことではありません。武器も持たない中で、自らを守ろうとする意志が、自然と独楽を手に取らせたのです。それが、たとえただの石ころだったとしても、この場合、竹童の手はその石を握りしめていたに違いありません。

「どうしてきさまたちの刃に倒れるものか!」

口には出さずとも、竹童の顔の筋肉はそう語るかのように引き締まっていました。そして、独楽を固く握りしめました。
遊びで回す独楽なら紐のことも考えますが、今この瞬間、そんな余裕はありませんでした。竹童は、武器として、また敵の目をくらませる手段として、敵が大刀を振り下ろしてきた瞬間に、この独楽を相手の眼球へ叩きつけてやろうと身構えていました。
卜斎もまた、竹童のただならぬ様子を見て取り、うかつには太刀を振り下ろすことができません。
ジリ、ジリと一寸刻みに距離を詰めながら、呼吸を整え、気合いを込めた最後の一撃で、ただ一太刀のもとに息の根を止めようとしているようです。

「参るぞッ!」

と、いきなり魔獣のような気合いが響き渡りました。
ハッとして、竹童の体も思わずその凄まじい迫力にすくみそうになったその瞬間――

「ええッ!」

と叫んだ卜斎の大剣が、電光石火の速さで竹童の頭上へ振り下ろされました。
「あッ」という声は、刃が空を切る音と重なりました。ドッと血煙が上がるかと思われたその刹那、竹童は死の淵のわずかな隙を狙い、右手を懐から出すやいなや、

「なにをッ!」

という一声とともに、待ち構えていた独楽のつぶてを、パッと卜斎の眉間へ投げつけました。

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