初級翻訳・神州天馬侠 第126話

吉川 英治

点々と飛び散った返り血が、まるで夜叉のように彼の腕や袖を彩っています。哀しく静まり返った夕方の雲が、矢来の上におもく垂れ込めて、一瞬、そこを吹く風さえピタリと止まりました。
 ああ、ついに間に合わなかったのか。小幡民部、山県蔦之助、巽小文治、彼らは一体何をしているのか! 急いで小太郎山から馬を走らせてくる途中で、馬もろとも血を吐いて倒れてしまったのだろうか。それとも、もうすぐそこ――三方ヶ原の北のあたりまで迫っているのだろうか!
 それにしても、ああ、もう取り返しのつかない事態になってしまった。一党になくてはならない盟友、加賀見忍剣は倒れ、木隠龍太郎も血の中にうつ伏してしまった。そう思った瞬間、菊池半助の無情な刃が、颯然と伊那丸の襟元へ振り下ろされました。

四

 目をおおうべき光景でした。菊池半助が気を込めた刑刀は、一閃、ひゅっと虹のような光を描き、伊那丸の姿を血けむりの中に消し去りました。
「アーアー」
 群衆からは、ただそれだけの声が漏れるばかりでした。直視するに堪えず、なかには矢来につかまったまま顔を蒼白にする者もいました。八双截鉄の落剣! 異様な血の音を立てて、武田伊那丸の首はバスッと前へ落ちました。胴体はその瞬間に、座った姿勢から前向きにガクッと崩れ落ちました。あの小袖につけた武田菱の紋も朱に染まり、もうピクリとも動きません。
 完全な死、完全な断刀です。家康もまた、選りすぐりの斬れる刀を刑吏へ授けたものと思われます。忍剣を斬り、龍太郎の首を打ち、いままた伊那丸を処刑した半助は、さすがに斬り疲れたのか、血の滴る刃を提げたまま、ぼうっとしばらく立ち尽くしていました。そのあたりの草むらには、まるで曼珠沙華という地獄の花が咲いたかのように、三つの死骸から流れた返り血が斑々と赤く燃えていました。
 斬刑が終わり、浜松城から来ている奉行や検視役人たちは、みな床几を立ち上がりました。入り乱れて働く下人たちの間に、血なまぐさい陰風が吹き抜けます。ひとつ星、ふたつ星……空は凄惨な暮色に包まれていきました。
 それでも、矢来の外にいる群衆は、なかなかその場を去ろうとしません。
「ああ、嫌な気持ちになった! はじめのうちはおもしろ半分で見ていたが、なんだか今になって毛穴がゾーッとしてきたよ。変なもんだなあ、人が斬られるっていうのは」
 矢来にたかっている大勢のなかで、ひとりの見物人がそう言いました。
「親方! 親方はなんともないような顔をしていますね」
 連れの男は太い口を固く結び、黙りこくって刑場のなかを見つめていました。革の胴服にモンペを穿き、脇差を差した工匠のような風体。一体誰かと思えば、秀吉の追捕を逃れて竹生島から落ち延びてきた上部八風斎、いまでは元の姿に戻って鏃(やじり)鍛冶をしている鼻かけ卜斎でした。話しかけていたのは蛾次郎です。
「だけど、考えてみると伊那丸もかわいそうだな。ちょっと旗上げのまねをしたばかりで、もう首を斬られちまった。忍剣も龍太郎もとうとう冥土のお相伴か。ああ、いやだいやだ、死ぬなんて。ねえ親方、こういうところを見ると、やっぱり富士の裾野あたりで、テンカンテンカンと鏃を叩いているのが一番安泰ですね」
 卜斎はそばのおしゃべりには耳も貸さず、腕組みをしていました。しかし蛾次郎は、卜斎が返事をしようとしまいと構わず、ひとり感想を述べています。
「これで、木から落ちた猿みたいにベソをかくのは竹童だろう。この見物のなかにあいつがいたら、今の景色をどんな顔して見ているだろうな……オヤ、もうおしまいかな、役人がみんな幕の陰へ入ってしまった――つまらねえな。ア! 非人が来たぞ、非人が。三つの死骸を片付けるんだな。やあ、いけねえ、伊那丸の首を河原の方へ持っていってしまいやがった。ホウ、あんなところの台へ首を乗せてどうするんだろう。龍太郎の首も、忍剣の首も――ああ、獄門というのはあれのことか? 親方親方、あれですか、獄門にかけるっていうのは?」
 蛾次郎は指を差して卜斎の顔を見上げましたが、その卜斎は、蛾次郎とはまるで見当違いな方向へ目を据えていました。「さっきから、なにを見ているんだい親方は?」

蛾次郎がそう尋ねて、卜斎の視線を追いかけてみると、竹矢来の一角には、野次馬たちが獄門台と掲示板の高札を見ようと押し寄せたあとの、ほのかに明るい夕闇が広がっていました。そこには、数えるほどの人しか残っていません。

卜斎はさっきから、ずっとその場所だけを睨みつけていました。
獲物を狙うような、鋭い白眼で。

蛾次郎もついに同じ場所へ焦点を合わせました。
その瞬間、蛾次郎の目はデングリ返るようにグルグルと回りました。
そして睫毛がせわしなくパチパチと瞬きをし、眉を八の字に曲げました。
何かを叫ぼうとした唇はゆがみ、言葉を失ったかのように鼻の穴を広げたまま、口をアングリと開けて茫然自失……。
まるで磁石に吸い寄せられたかのように、釘付けになっています。

泣き虫の蛾次郎、そしてあの親方の卜斎までもが、一体何を見てそんなにぼう然としているのかといえば、それも道理。不思議、いや「不思議」という言葉では足りない、ありえない事実がそこに明らかに存在していたのです。

見れば、北側の矢来の外、人影もまばらな場所に、ヒソヒソと話し合っている旅人たちがいます。
よくよく目を凝らして驚いたことには、その姿は、たったいま刑場の中で首を斬られたはずの、忍剣、龍太郎、伊那丸の主従三人そのものでした。

これほど怪奇なことはありません。
菊池半助が大勢の観衆の前で確かに斬り殺し、その血は今も刑場の草を赤く染め、その首は都田川の獄門台に晒されているというのに!
そのはずの人間が、ここにいるのです。
話している。笑っている。
ときどき、自分の首が乗せられている獄門台の方を見ては、くすぐったそうに、あるいは不思議そうに、微笑みながら頷き合っています。

五

卜斎が目を離せなかったのも無理はありません。蛾次郎が息を呑んだまま呆気にとられてしまったのも当然です。
人違いではないかと思い、目をこすって見直しましたが、やはり記憶は嘘をつきません。どう見てもあの三人は、菊池半助にバサリと斬られた首の主たちに間違いありません。

武田伊那丸は眉目を藺笠(いがさ)に隠し、浮織琥珀(うきおりこはく)の袴を履き、肩から斜めに武者結びの包みをかけています。木隠龍太郎はいつもの白衣白鞘の姿であり、加賀見忍剣も雲水姿のままで、手には例の禅杖を突き立てています。

「ウーム……親方……」
蛾次郎はうなるようにして卜斎を見上げました。
「……はて……」
卜斎もまたしきりに首をひねっていましたが、やがてこう言いました。
「どうも解せぬことがあるものだ。野次馬には何もわからまいが、わかる者から見れば、世の中の裏表というのは実に奇妙だ。いや、裏が表なのか、表が裏なのか、こう見ていると私にさえわからなくなってくる」
「まったくです!」と蛾次郎も相槌を打ちます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました