初級翻訳・神州天馬侠 第127話

吉川 英治

「斬られた首が本物の伊那丸なのか、今見ている首が本物なのか、何が何だかさっぱりワケがわからなくなっちまいました」
「そりゃもちろん、あっちの連中が偽物だろう」
「えっ、どっちがですか?」
「矢来の外に立っている連中だよ」
「すると、生きているほうの伊那丸たちがですか?」
「うむ。各地の落武者や浪人で、飯の食えない侍の中には、名のある者の姿と偽名を使って、無知な田舎の者たちを騙して歩く輩がずいぶんいる。おそらくそんな連中だろう」
「だって親方、それにしちゃあまりに似すぎていますよ。ちょっとそばに行って、私が目利きをしてきましょうか」
「こら、余計なところへ突っ走るな!」
「へい!」
「ばかめ、すぐに調子に乗りおって!」
「でも……」
蛾次郎は河豚のように頬を膨らませました。何もそこまで頭ごなしに叱らなくてもいいのに、と思いましたが、卜斎に袖を引っ張られてハッとしました。
背後に、嫌な目つきをした町人が立っています。うさん臭い目つきで、自分たちの挙動をじっと見張っているようです。

蛾次郎は慌てて口を閉じ、夕星(ゆうづつ)の方へ顔をそらしながら「親方、そろそろ晩になりましたね」と空とぼけました。
「戻ろうか、城下へ」
「帰りましょうよ。早く宿屋のご飯が食べたい」

空の星が増えるのと反比例するように、地上の人影はぼつぼつと減っていきました。
二人は矢来の際を離れながらそれとなく振り返りましたが、いつの間にか例の三人組は忽然と姿を消し、どこにも見当たりませんでした。
まるで、たった今ありありと見えたその姿が幻か、人間の蜃気楼でもあったかのように。

妖麗な夜霞を吹いて、三方ヶ原の野の果てから、卵黄色をした夕月がのっと昇ってきました。
都田川の川面は、刻一刻と水の色を藍、黒、金、そして銀波へと変えていきました。そして河原は、シーンと静まり返りました。
まるで秋の気配が漂っているかのようです。今にも虫の声が聞こえてきそうなほどです。
獄門台の釘に刺された三つの首は、月光に照らされてもなお、深くまぶたを閉じていました。
そのそばには、真新しい木で作られた高札が立てられています。
以前、この原っぱの細道で、足軽が担いで運んでいるのを竹童がちらりと見かけた、あの高札です。
――すると、いつの間にかその立札と獄門の前に、三つの人影が近づいてきました。

「わしの首がさらしてあるな」
そう言ったのは、伊那丸の首の前に立った、本物の伊那丸でした。
「これが拙者の首でございますな」
龍太郎もまた、自分の首を眺めて笑いました。
「自分の首と対面して話をするというのは、面白いものだな。
これ、忍剣の首! よくその面体をわしに見せろ」
加賀見忍剣は禅杖を持ち替えると、いきなり獄門台の首の髷(まげ)をつかみ、月光にかざして高く差し上げました。
「はっ、はっ、はっ、はっ。
運の悪い弱虫の忍剣め、次の世には拙僧のような不死身の体を持って生まれ変わってこい。
喝! 南無阿弥陀仏ッ――」
ドボーンと、忍剣は首を都田川の流れへと放り込みました。

その水音が上がった途端でした。
獄門番が寝泊まりするむしろ小屋から、銀の鞭を手にした黒衣の伴天連(バテレン)が、豹のように飛び出してきました。
「計略ッ、図にあたった!」
絶叫したその人物こそ、和田呂宋兵衛(わだ・ろそべえ)でした。
「ウウむ、網にかかった!」
呂宋兵衛の叫びに呼応して怒鳴ったのは、隠密頭の菊池半助です。いつの間にか三人の背後に姿を現していました。
「しめた! 伊那丸主従のやつら、そこを去らすな!」
と四方へ向かって叱咤します。
同時に、「ピピピピピ……」と二人が音を合わせて吹いた合図の笛につれて、河原の影や草むらの中から、イナゴのようにわらわらと百人もの町人が飛び出しました。
彼らは、その日の見物客の中に紛れ込ませておいた、菊池半助配下の伊賀衆たちです。小具足や十手を操る腕利きたち、変装した百人組の者たちでした。
さらに見渡せば、川の向こうから三方ヶ原のあちこちには、いつの間にか秋の霜のように鋭い槍や刀を構えた兵たちが現れ、完全な人垣を作って、逃げ道を二重に封鎖していたのです。
鉱山の掘夫たちさえ知らない山奥の道にまで――。

一

その同じ日の夕暮れ、まだ逆川に夕日の赤みが明るく反射していたころのことです。
小夜の中山、日坂の急な坂道を下り、松並木が続く掛川から袋井の宿へと、まるで鉄球が飛ぶような勢いで、砂煙を上げて疾走する悍馬(かんば)がありました。
黒い点となって動く、三頭の馬。
言うまでもなく小太郎山から、伊那丸の急変を聞きつけて鞭を振るってきた、小幡民部(おばた・みんぶ)、山県蔦之助(やまがた・つたのすけ)、巽小文治(たつみ・こぶんじ)の三勇士です。
天龍川の瀬を乗り越え、無我夢中で笠井の里へたどり着いたときには、西遠江の連峰の背に太陽は完全に沈みきっていました。一跳び一跳びごとに、馬の前には暮色が濃くなっていきます。

「暮れたぞ! 暮れたぞ!」
蔦之助は鞭が折れんばかりに馬の背を打ち、叫びました。
馬の速さ以上に、彼らの心は三方ヶ原へと飛んでいます。
「刑場はもう近い! 落胆するな、気をくじくな!」
民部はそう励ましながら、いよいよ手綱に力を込めました。
しかし、ああしかし。三方ヶ原の北端をのぞんだ時には、もはや夕刻とは呼べないほどの完全な夜となっていました。
草むらと平原には、うっすらとした月光さえ流れ始めています。
すると、原っぱの道を散り散りに歩く人影が見えてきました。浜松の城下へ帰っていく見物人たちです。
それを見た巽小文治は、
「ウウム、残念ッ――間に合わなかった! もはや刑場のことが済んだと見えて、皆があのように戻ってくる」
と歯噛みをして、自分の膝を、かかえていた槍の柄で激しく叩きました。
民部の表情もさすがに青ざめていました。
それを見ても、もはや「気をくじくな」と励ましきれる状況ではありません。
彼は道々すれ違った町人たちに都田川の様子を尋ねましたが、返ってくる答えは皆、「伊那丸主従は菊池半助の斬刀に命を絶たれ、その首級は河原の獄門に晒されている」というもので一致していました。

絶望! 三人は馬から落ちるように草原へ降りると、よろよろと腰をついてしまいました。
民部は何も言いません。小文治も黙然と深い溜息をつくのみです。
蔦之助もまた暗然として言葉を忘れ、無情にまたたく星を見上げて涙ぐむばかり……。
「ぜひもない! 俺は一足先に御免こうむる!」
小文治はいきなり脇差を抜き、自分の腹へ突き立てようとしました。
すると同時に蔦之助も、
「おお、この期に及んで何の生き甲斐があろう。小文治、拙者も共に若君のお供をするぞッ」
と、同じく自害の刃を取り出したのです。「これッ――」
民部は叱りつけるような声で、左右の二人の腕をがっしりとつかみながら怒鳴りました。
「なにをするつもりだッ!」
「……おたずねになるのは、むしろ意外でございます」
「死ぬという考えなら、しばらく待ちなさい」
「すでに伊那丸君が亡くなったとわかった以上は、いさぎよくお供をして、臣下としての本分をまっとうしたいのです」
「その気持ちはよくわかる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました